下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶ひやかに

やはり茱萸(ぐみ)とは同じ季節の象徴として合わせて語られるのでしょう。ということも雨月物語に触れるまでは知りませんでしたし、日常でそのように感じるということもありませんでした。

現代においては、物心ついてからの成長の過程において画面から情報を得たりすることが多く、その刺激の強さに慣れ、その構造に慣れているせいか、目の前の現実にはそれほど向き合いません。

テレビ、インターネットといったものだけではなく、本やマンガや映画やアニメといったものからの情報を頼りにすることが多い傾向にあります。そして江戸時代に比べれば当然に実際の体験から感じるということが減っているということになるでしょう。

文学作品等々においても、体験を通じて「体験の中にあるものを用いる」という視点が生まれたという感じよりも、好きな作品の描写から、それらに目が向いて、注目することにした、という場合が多いような気がします。そうなると、そうした視点自体が文学から寄せ集めたもの、という感じすらしてしまいます。

端的には、本当は見向きもしておらず、興味もないという中「より優れた芸術性のために観察することにした」という感じで、動機発生が別のベクトルからやってきたものという感じになっていることも多いのだろうということです。

それはそれで発端としては仕方がない面があります。既にうまく編集され、面白く、刺激が強く作られているものに関心が向いてしまうということは致し方ない面があるからです。

逆に昔はそうした強い刺激のものに触れる機会が少なく、目の前のもので楽しむしかなかったということから、「下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶ひやかに」というフレーズも生まれやすかったのだろうということを思ったりもします。

例えば、記憶の中にあるものが観てきたアニメばかりで埋め尽くされていると、要素として一度それらを細かく分解して素材とするくらいしかなくなってしまい、オリジナルとしての深度は浅くなってしまいます。

ということで、「誰が誰かわからない」という感想を抱かざるを得ないようなアニメキャラ、ゲームキャラばかりになっているのでしょう。

影響を受けた作品というものは大切にして良いと思いますが、素材として体験の中から得たものが加わるとオリジナル性が高まっていきます。

それがない場合は視覚情報にしても「全く同じものを観ている人が既にたくさんいる」ということで、生み出されたものの重複可能性が高まってしまいます。

ということを避けるにあたっては、ひとまず地元にいる変なおじさんや変なおばさん、個性ある同級生などを具に観察するというようなことがポイントとなるでしょう。

それら観察は自分の目を通すため必然的に視点と切り取り方がオリジナルとなります。

そしてその視点と切り取り方がまた誰かに新しい視点と切り取り方の提案をすることになるという意味で芸術性が高まることになるという格好になるでしょう。

しかしながら、便器を題材にするということ自体が芸術、ということは、内輪だけでやるようなことであると思っています。

下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶ひやかに。

その切り取りも一期一会と知る。

Category:菊花の約

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ