タグ別アーカイブ: 哲学

諸法無我

諸法無我(しょほうむが)について触れていきます。諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、仏教用語にはなりますが、諸行無常と同じく単なる理(ことわり)を表すにしか過ぎません。 諸法無我についても仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸法無我の正確な説明、解説を示し、辞書的・教科書的に終わるつもりはありません。諸行無常(しょぎょうむじょう)と同様に、諸法無我という理へのラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 諸法無我は諸行無常と同様に、自分の主義によって変更するこ

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尊厳・自尊心と承認欲求

尊厳・自尊心と承認欲求ということで、人の尊厳や自尊心と他者からの承認、そしてそうした承認を欲する承認欲求について紐解きながら、それらを根本から覆していきます。 「人は他人から自分の存在を確かめる」とでも言いたげに、社会においては尊厳や自尊心を当然のものとして扱い、他者からの承認をもって尊厳を保っているとでも言いたげです。 それこそが人の幸せを決めるものであり、承認欲求は当然に起こる欲求だとでも思っています。 しかしそんなものは必要ありません。 「承認欲求を満たす」とか「自尊心を満たす」という方向性でばかり様々なこと

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自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

自由意志はあるのか、もしくは自由意志はないのか、そんなことをいつまでも議論している人たちがたくさんいます。 何かと相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことが朧気ながら分かってくるはずです。 どんなことでも、前提が間違っているとその先の論理の展開もおかしな方向に行きます。まあ自由意志についての混乱は、つまるところ無明から起こっているという感じになるでしょう。 これは、何も考えないまま雰囲気で「哲学に意味がない」とか、「自由意志があるのかないのかなどどうで

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緊張と弛緩から観る「今」のあり方

心を語る上でよく緊張と弛緩がテーマとなることがあります。リラックスするための筋弛緩法というものもありますし、笑いの要素の一つとして、桂枝雀氏提唱の緊張の緩和理論というものもあります。 緊張があってそれが弛緩する、つまり緩むということですが、その瞬間に人はリラックスし、人は笑うということになります。 そこでよくよく考えてみたいのが、緩んでいる時は文字通り安穏の状態にあり、イコールで幸せな状態にあるということです。 緊張と弛緩や緊張の緩和理論においては、相対的に緊張と「ゆるみ」が対比された上で語られていますが、「ずっと

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意識の分野の解消法その3 断捨離的に関係を解いていく

世の中では「断捨離」ということで、物を捨てることでスッキリしましょうという感じのことが囁かれています。断捨離がうつにも有効的であるという感じで語られることもあります。不要なものを捨て、所有物を少なくしていこうということで、なるべく執着から離れれば気持ちが楽になるというようなことが語られています。 しかし、おそらくそうした効用的な面だけが語られているにとどまり、本質的なことについてはあまり語られていないと思いますので、あえてそうした断捨離がなぜ効くのかということについて書いていきます。 アイツこと自我の根底にあるもの

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哲学の道の黄昏

哲学の道の黄昏

哲学の道の黄昏ということで、昨日行ったばかりの哲学の道について触れながら、道行く人を見ながら感じたようなことについてでも書いていきましょう(ついでに、たった今の出来事ですが、なぜか、「みちゆくひと」と打っても通行人としか変換が出ません)。 このシーズン、哲学の道は桜吹雪の大乱舞という感じなので、人でいっぱいです。外国人だらけで、地元の人はほとんどいないような感じでしたが、想像よりは人が多くなかったので、程よく散歩することができました。なお、哲学の道はホタルスポットでも有名だったりします。桜もいいですが、ユキヤナギを

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洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた

洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みてみました。宗教勧誘を論破して撃退するという感じではなく、相手のフレーム合わせて、対機説法をしてみるという感じです。 普通は宗教勧誘に対して上手く断るという感じだったり論破して撃退するという感じだったりするでしょうが、僕の場合は目的が少し違っていて、追い返すことではなく、短時間で脱洗脳のタネを撒いておくことです。 先日、Twitterでこっそりつぶやいてみましたが、ほんの少し前の休みの日に我が家に宗教勧誘の人がやってきました。 それで玄関先で話すことになったので

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克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になる

克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になるという感じで、よくありがちな「克服しよう」という方向性自体が、目的と逆行してしまうというパラドクスについてでも書いていきます。 「うつを自力で克服する」では方便的に便宜上克服という言葉を序盤に使っていますが、苦手の克服にしろなんにしろ、「克服する」という考え方自体が、対象に対する執着と「自分への影響力の肯定」になってしまい、結果的により盲目的に克服とは逆行した働きをしてしまうという感じです。 そう言えば、検索流入を見ているとニヒリズムの克服であったり、ルサンチマンの克服で

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自由意志と洗脳

自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。 自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。 自由意志とは何かを捉えるとすれば、「意志が自由である」ということになりますが、哲学的に見るとそうした意志自体がオリジナルであるのかどうかが疑わしいはずです。 行為を客観的に見た場合、選択肢としての自由はあるように見えますが、意志決定における方向性として「どの選択肢を選ぶか?」というもの、主観的な意志、主観的な選択は本当

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哲学と解釈

哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。 ではそれらは何か違うのでしょうか? その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成するということです。 特別企画の曙光(ニーチェ)完了記念ということで、何かニーチェっぽいことでも書いてみようかなぁと思っていましたが、すぐには思い浮かばず、お題を無意識に任せていました。が

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われわれ精神の飛行する者!

しかしそこから、それらの前には巨大な自由がもはや全くないとか、それらはわれわれが飛ぶことの出来る限り飛んだとか、推論することがだれに許されようか!われわれの偉大な師や先駆者たちもすべて最後には立ち止まった。そして疲労で立ち止まるのは、極めて高貴な身振りでも優美な身振りでもない。私も君もそういう成り行きになるだろう!しかしそれは私にとっても君にとっても何の関係があるだろうか!他の鳥がさらに遠く飛ぶだろう! 曙光 575 一部抜粋 この「われわれ精神の飛行する者!」でニーチェの曙光シリーズ最後の投稿になります。 それで

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道徳に対するドイツ人の態度

ほかならぬこの民族に満足を与えるのは、いかなる道徳であろうか?たしかにこの民族は、その心から服従癖が道徳の中で理想化されてあらわれることをまず望むであろう。「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない。」― これがドイツ的な感覚であり、ドイツ的な首尾一貫性である。人はすべてのドイツの道徳学的の根底においてこれに出会う。 曙光 207 中腹 一部抜粋 なんだかんだで、いまだに明晰夢のようなものをよく見ます。寝る前や起きる直前も多いですが、おそらくその間であろう時間帯にもよく見ます。 つい先日

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「この印において汝は勝つであろう。」

その他の点でヨーロッパがどれほど進んでいようとも、宗教的な事物については、ヨーロッパは古代のバラモンの素朴な囚われない心にまだ到達していない。 ― さしあたりわれわれは、インドで、思索者の民族の間で、すでに数千年以上前に思索の命令として実行されたものを、ヨーロッパが取り戻すように気をつけよう! 曙光 96 一部抜粋 ニーチェによる「曙光」一書の締めくくりは、インドにおけるバラモン、そしてブッダの記述が見られ、ヨーロッパにおける心に関する考え方自体への警鈴が示されています。 さて、「この印において汝は勝つであろう。」

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「利他主義」の原因

人間は一般に、愛を少ししか手に入れたことがなく、この食物を飽きるほど食べることができなかったので、愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた。 曙光 147 序 「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。 「愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた」というのは、なかなか面白い表現です。 「愛」という表現に持っている人の印象は様々ですが、イエスが言ったような「神の愛」は、いつでも無限に降り注いでいるという感覚です。 愛が限定的でたまにしか現れないと思っているからこそ、

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真理とは何か?

神がまさしく真理でないとしたら、そしてまさしくこのことが証明されたとしたら、どうだろう?神が人間の虚栄心であり、権力欲であり、短気であり、恐怖であり、喜びと驚きの妄想であるとしたら、どうだろう? 曙光 93 後半 「真理とは何か?」 といきなり胡散臭いカルトのようなタイトルですが、特別企画なので仕方ありません。 カルトもよく真理という言葉を使いますが、「教祖に財産をお布施しないと地獄に落ちる」等々、それは真理ではありません。 しかしながら、そんな変な宗教や宗教まがいの自己啓発セミナーなどにハマってしまう人たちがいま

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「利己的でない!」

あの人は空虚であって充実することを望んでいる。この人は満ちあふれていて空になることを望んでいる。― 双方とも、そのため彼らの役に立つ個人を求めるように駆り立てられている。そしてこの過程は最高の意味で理解されたとき、どちらの場合も、愛、という一語で呼ばれる。― 何だって?愛は利己的でないものであろうか? 曙光 145 利他精神を賞賛しようが、どこまでいっても利己的でありつつ、利己的であることを突き詰めると利他的にもたどり着く、というのが本当のところです。 世間で語られているような利己的や利他的はいわゆる二元論になって

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神の誠実

全知全能であり、しかも自分の意図がそれから想像されたものによって理解されることを配慮さえしない神、― それは慈悲の神であろうか?数かぎりのない懐疑と疑念を、人類の救済にとって危険なものでないものであるかのように、数千年も長いこと存続させる神、しかも真理をつかみそこねた場合には、再び最もおそろしい結果を約束する神が?真理を持っていて、人類が真理を求めて悲惨に苦しむ状態を観察しうるのは、残酷な神ではないのか?― しかしおそらくそれはやはり慈悲の神であるであろう。― 彼はただ自分をそれ以上にはっきりとは表現することができ

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最悪の敵はどこにいるか?

自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がどこで求められるかを見積もるがよい! 曙光 416 人類史上、最も優れた発明は「ゼロ」の発見であるということを言う人がいます。しかしながら一方で、その「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であ

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不殺生戒と人を殺してはいけない理由

不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。 戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。 殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め

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序列をその国民に与える

多くの偉大な内面的な経験を持ち、精神的な眼でそれを見つめ、見渡すこと― これが文化人たちを作り出す。彼らがその国民に序列を与えるのである。フランスとイタリアでは、貴族がこれを行なった。貴族がこれまで一般に精神の貧困者に属していた(おそらくもはや長いことではあるまいが)ドイツでは、司祭や、教師や、彼らの子孫がこれを行なった。 曙光 198 少し昔までの日本では、「わかりやすい普通」が作られていました。エコノミックアニマルと呼ばれたりして、愛社精神を持ち、ひとまずがむしゃらに働く人が賞賛されていました。 それはまさに資

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「今」に集中することと今をスタートとすること

「今」に集中することと今をスタートとすること、ということで以前にサイト内検索で大人気だった「今  集中」というようなことについて、哲学カテゴリとして少しだけ書いていこうと思います。 「今ここに集中する」みたいな感じで、欧米でも流行っているようですが、あの手のものは所詮と言っては何ですが、「フィットネス代わり」に瞑想を取り入れているという感じで、カルチャースクールのヨガ教室程度のレベルの話に終わっていると思います。 あの手の話における「今。ここに集中する」は、ストレス軽減や集中力アップ、思考の抽象度を上げる、心理的盲

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威厳と無知の同盟

そうだ、われわれの無知と、知識に対するわれわれの渇望の乏しさとは、威厳として、性格として、肩で風を切って歩くことを見事に心得ている。 曙光 565 文末 威厳を欲することはありませんが、社会の中で過ごす場合は、威厳がモノをいう時があります。それは蔓延する体育会系思想、儒教思想的なものの影響が大きいでしょう。こうした威厳のような権威性は、儒教思想下にある場所以外でもどこの地域でもあるようなことですが、 「威厳がある方が何かとやりやすい」 ということで、「オレがオレが」、「私が私が」、ということになっています。 権威性

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啓蒙主義に対するドイツ人の敵意

過去のものの完全な、また最も究極的な認識という外見のもとに、認識を一般に感情の下に押さえつけること、そして― 自分自身の課題をそのように規定したカントの言葉を借りていうと― 「知識にその限界を示すことによって、信仰に再び道をひらいた」ことは、決して少なからぬ一般的な危険であった、ということである。われわれは再び戸外の大気を呼吸しよう。この危険の時は過ぎ去った! 曙光 197 中腹 啓蒙主義(けいもうしゅぎ)は、封建・地主思想やキリスト教を前提とした思考方法、世界観を批判し、なるべく純化された理性による人間性の解放を

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最も個人的な真理問題

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序 「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うはずですが、誰もその疑問に答えてはくれず、その先自分をごまかすように大人になっていきます。 「これが答えだ」と束の間の錯覚を覚えることもありますが、寝て覚めればそれもなんだか色褪せ、また

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「うつ」を自力で克服する

「うつ」を自力で克服するということという感じで、根本的なことについて少し書いていきます。いわば「治るときはすぐに治ります」の純粋な続編ですね。 「うつ、もしくはうつ気味の方へ」というカテゴリの中の投稿数はそれほど多くありませんが、一応毎度毎度いつもよりは力を込めて書いていたりします。なぜ今まで書かなかったのは自分でも不思議ですが、どうしてこんなテーマを取り扱うことにしたのか、という点をもう少し仔細に書いておきます。 もちろんこのブログは広告なども付けていませんし、胡散臭いメールマガジン登録(笑)も一切する気はありま

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