逆らうもの

ある組織や主義などと同化し、共通の敵を作ることによってアイデンティティを形成しようとしている人がいます。しかしながら、何かの主張を「叫ぶこと」や誰かに対して嫌がらせをすることくらいしかできません。

啓発活動をしても結局は「お知らせ」しかできないから、それしかできていないわけですが、本当に「何かを変える」というのは、彼らの目的としては二の次です。啓発活動をしたり、何かの主義や主張を叫んでいる人たちにとっては、何かに「逆らっていること」に意義があります。

自分たちでは本当に何かを変えようとしていると主張しますが、そんなことはありません。声高々に叫ぶことは、空に消えて終わりです。そんな非効率なことしかやらないのは、やはり目的が「何かを変える」ことではなく、「逆らうこと」にあるからです。

その前にどうしてそんなものに同化しようとするのでしょうか。

何かと同化するということ

昔から、スポーツチームなどをどうして応援できるのか不思議です。地元で、メンバーも地元民ということになれば、まだなんとなく理解できるので、高校や大学単位なら、「出身校だ」「地元だ」といった具合に、なんとなくわかりますが、京都に住んでいて読売巨人軍を応援できるということが、どういう思考や感情の結果なのか、誰かに聞いてみたいのですが、「殴られるからやめておけ」と周りに止められています。

出身校だ、地元だ、でもよくよく考えるとよくわかりません。サッカーに興味が無い人が、急に世界で日本代表が戦うとなれば、急に盛り上がったりします。そのようにして、何か他の団体に自分というものを同化させて、その勝ち負けで一喜一憂するのがいいのでしょうか。残念ですが、団体にかぎらず、例えば「妹が芥川賞をとった」としても、もらったのは妹です。自分は関係ありません。妹が芥川賞をとっても嬉しくありませんし、選考に外れても憂うことはありません。その必要はどこにもないどころか、そんなことを基準にしていたら、妹の気分で自分の気分まで変わってしまいます。他人に舵取りを任せるようなものです。

そういうことからはいち早く足を洗うことです。

少し関係あるようなないような話になりましたが、関係はあります。構図が同じだからです。

まずはひとつ減らしてみよう

逆らうこと自体は自分の意見と他人の意見が食い違った時に起こります。食い違うだけならば、逆らう必要はないのですが、何かを決めるとき、とりわけ、自分が行動などを強制されかけている時に「逆らう」ということになります。

しかしながら、それほどにまでに直接的ではないのに、愛国主義などにはまって、国家に敵対しているものなどにまで、自分と対立させる必要はありません。それは国家と国家などの話であって、愛国主義者と相手の国家の問題ではありません。愛国主義者と相手国の愛国主義者との問題でもありません。

愛国主義を貫くことによって、何を手に入れたいのでしょうか。それを考えると非常に遠回りです。自分で全てを舵取りできるものならまだしも、自分は叫ぶことくらいしかできません。そんなことをして「どういった結果」を望んでいるのでしょうか。そして、どうしてその結果を渇望しているのでしょうか。結果が自分にもたらす結果はいったいどんなタイプのものでしょうか。ただの情報にしか過ぎません。しかも五感で感じるタイプではなく、思考の中だけの情報結果にしか過ぎません。

例えば、自分は逆らう側の主張を前から唱えていて、国家などが自分の意見に近い行動をとった結果、相手が屈したというニュースが流れた、としても、全部頭の中で起こっていることです。

「やったぜ」

と思っても、その「やったぜ」だけです。ニュースから流れる情報に同化し、意見に同調し、何かの結果の情報によって、喜んでいるだけ。全部自作自演の情報だけで完結しています。

相手に何かの行動を強制されかけているといった急迫性もないのに無駄に逆らい、無駄に一喜一憂しています。

それは自分の気分の舵取りを、自分が嫌いだと思っている相手に任せているというパラドクスです。

ひとつずつでも減らしていったほうが賢明でしょう。

逆らうもの 曙光 110


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