空アリ

021 (1280x960)

空アリという駐車場の看板についてです。

論理上はイエス/ノーで二元論化している空間でのお話。

つまり埋まっているのか空いているのか、ということです。

コンピュータの世界では、0と1の2進法でほとんどのことが表現できてしまう。

しかし、こんなことが本題ではありません。

仏教では「空(くう)」と読み、あらゆる事物は固定的な実体性を持っていないと説きます。

いきなり「空」について触れてしまうと、それだけで終わってしまいそうなので、エッセンスだけ。

言語には限界があるので、伝わるかはわかりませんが、またいずれ書く事にしましょう。

一般的な「ある」と「ない」、「有」と「無」ですが、これはあくまで相対的なもので、何か対象を二元論化した時に出てくるものです。

前々の投稿で、抽象と具体について触れましたが、有や無をもう一段抽象化した最終地点が「空」になります。

たまに「空を感じて、無になりたい」ということを言う人がいますが、あくまで「有」の対義語としての「無」をイメージしていると思います。

結果、何も考えない「ボーッとした状態」みたいに捉えがちだと思います。

それを体感してみることもいいのですが、あくまで、「空」ではありません。

その一段階下の有/無の次元で頭の中で考えていることです。

「何もあるということはある」「何もあるということはない」

「何もないということはある」「何もないということはない」

普通に考えると、さっぱりわかりませんが、言語で表現しようとするとこの程度が限界です。

なぜなら、言語すらも超越している次元なのですから。

この世の現実は全て流動的であり、止まることはありません。あらゆるものにとらわれることなく生きなさいと、釈尊はおっしゃいます。

僕は釈尊という言葉には違和感を感じます。

ですので使いたくないのですが、引用なのでご容赦を。

「物事に永続性はない」これは、なんとなくわかっているような錯覚を覚えますが、どこかに「これだけは変わらないだろう」とか「これは変わって欲しくない」とか思っている項目が眠っています。

それを直視しようとすると、脳というか「自我」は自分の存在意義が危ぶまれるので、猛反撃してきます。

「あらゆることが移りゆく」、ということを「俺のこの部分だけは除外で」とか「これだけは絶対に譲らない」とか考えずに捉えられればいいのですが、なかなかうまくいきません。

ただ、「どこかでわかっていながらも、認めたくない」という心の動きを単純に傍観することができれば、そんなことで一喜一憂、感情が振り回されるのもバカバカしい、ということに気づいてきます。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ