不安こそ生きてるあかし 改

生きていると常に不安があると言われます。

しかし、そうでもないと思います。

余計な信念や観念さえなくなれば、大抵の不安はありません。

最後の最後は、本能レベルでの恐怖と向き合わなければなりません。

不安はすべて、本能的な恐怖心がなにかのフィルターにかけられて、文化的な悩みとして表れています。

それならば、まだつかみやすくて野性的で、いいのですが、最もわかりにくいのは多段にフィルターにかけられた悩みであり、不安です。

本能レベルの恐怖心が関連思考によりねじ曲げられ「願望」かのように変化する

本能レベルの恐怖心が、関連思考によってかなりねじ曲げられて、それを「願望」かのように見せてくるのでかなり翻弄されます。

本来、本当に望んでいることは、他の人など関係ない経験だったり感情だったりします。

それを「有名人になりたい」というふうに、本当は本能としての「生命の安全」の欲求が、化けて出てきます。

一見関係なさそうに見えてしまうのは、フィルターが何重にもかけられているからです。

目立ちたい、人にチヤホヤされたいのは自尊心といえば自尊心の問題ですが、つまり人から大切にされる存在でないと怖い、誰からも相手にされないと、いざという時に助けてもらえない、また、生殖的な本能的欲求もあるかもしれません。

すごい存在というものは、それだけで労力なく身の保障や衣食住が揃うとでも思っています。

「すごい存在でないといけない」「他人から大切にされる存在でないといけない」

これは本来的に、自分が安全であることの確認がしたいということの表れかもしれません。

安全を手に入れたいというよりも、その「確認」がしたいと言ったほうが適切でしょう。

その確認作業自体が「生きがい」だとおもっているフシもあります。

不安がない方がデフォルト

みんながそう言っているからといって、それが正しいとは限りません。

先の投稿で、「今に集中する」について触れましたが、「アイツ」の範囲でいいので、少し考えてみましょう。

いま、不安でいっぱいだったとします。

そんな時、「今」に集中して、実は何も起こっていないことを実感したとします。

普通に考えれば、「その一瞬だけのごまかし」かと思いますが、もし、そっちが本当で、不安に苛まれている「現状」のほうが「ごまかし」だったとすればどうでしょうか。

今現在、何も起こっていないという実感に、すぐに入れるのはおかしな話です。

本当に今に集中できれば、混じりっけなしの「安心」を感じることができます。

どこかに不安を感じていれば、「今」に集中していません。

確実に未来か過去のことを考えています。

「今」に集中していれば、思考も感情も発動できません。

ただ、ふんわりとした心地よさがあるだけです。

もしかしたら、それが本来ある形で、あとは「アイツ」による振り回わし、なのかもしれませんね。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

過去記事⇒不安こそ生きてるあかし

Category:さよなら私 / 自分なくし

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