犠牲の道徳

犠牲に供することに応じて自らを測定する道徳は、未開の段階の道徳ある。 曙光 221 一部抜粋

このようなタイトルを見たことがある、と思って見直すと「生贄の道徳」でした。しかも曙光215です。今回はバラバラに書いているため、すぐには気づきませんでしたが、国語の授業なら「一項目にまとめましょう」と先生に添削されるような書き方ですね。ニーチェもあとで思い返して追記したのでしょうか。「うーん、さっきは生贄だったから、ここは犠牲にしておくか」という具合でしょう。この項目は先の215とまとめてもいいくらい比較的短文です。そういうところに「狂人」などと言われるニーチェの人間臭さが少し見えるような気がします。

さてタイトルについて少し触れていきましょう。

犠牲と苦しさ

一般的に犠牲と認められるにはある程度の露骨さがないと、世間では「犠牲」とされません。よほどわかりやすい事例でないと「犠牲になっている」という自覚もありません。また、傍から見ると犠牲になっているように見えて、本人はそんなことは全然思っていない、という場合もあります。

それは「犠牲」の中に苦しさがあるかどうか、ということが判断基準に盛り込まれているからです。

ふと小学生か中学生くらいの時の道徳の時間に習ったことを思い出したので、ついでに先に記しておきます。こういうところが特別企画の醍醐味です。今まで忘れていたようなことです。

そんな歳でまだ働いているなんて

たしか道徳の時間だったと思います。「知らぬ間に人を傷つける事ことのないように」というような旨で、プリントが配布されました。

その中には「こういうことをいうことはやめましょう」という具体例がありました。

そして、その中に「そんな歳でまだ働いているなんて」と井戸端会議中の主婦たちがひそひそ話をしているという絵がありました。もうひとつ「共働きなんて、旦那さんの犠牲になってるみたいね」と、ひそひそ話をしているというシーンもありました。

近年ではあまり考えられないようなことですが、小学生から中学生までの間はちょうど90年代です。おそらくそれよりも少し前に作られて、そのまま使いまわしているのでしょう。

その当時ですら僕には理解不能でした。一応、道徳のプリントには、「お金がなくて働かざるをえないという場合だけではありません。働いているのには、様々な理由が考えられますから、思い込みはやめましょう」という事が書いてありました。

事例にあるようなことを思う人達は本当にいるのだろうか?

当時はまだ小学生くらいですが、本当にそんなことを考えました。なぜならうちの家族は全員働いていたからです。父方のおじいちゃんも退職後に嘱託で、おばあちゃんもパートに、母方のおばあちゃんも、元は社長夫人ですが、手に職があったので職人を続けていました。

友達の家もほとんど自営業か零細企業です。逆に専業主婦というものが都市伝説のように思っていました。バブル崩壊後とは言え、バブル期も夫婦共に店を切り盛りされていて、その当時でも友達の家に行くと店先にご両親がいて、さらにおばあちゃんなども店先にいるのですから、不思議に思うのも当然です。昼間にずっとテレビを見て煎餅をかじっているのはアニメの中の世界だけと思っていました。

そんなことを思う人は、働いたことがないのではないか?

という疑問がわきました。みんな「疲れたー」と言いつつも、苦しそうに働いている人はいませんでした。勝手な思い込みで、働くことは苦しいことだと思っている人がいる、ということを学校で習ったものの、イマイチ実感のわかないまま、思春期を過ごしました。

そのうち、高校生くらいになると都市伝説ではないということがわかってきました。たまにその手の「無駄に就職を避ける女性」がたまにあらわれます。先のプリントにあったようなセリフを本当に言っているのです。

衝撃でした。うちのおばあちゃんは「この歳でもまだ仕事があるなんて幸せなことです」と、活き活きしていましたから、そういうタイプの人どういう意味で言っているのか理解できませんでした。

結局おばあちゃんは視力が仕事に影響が出て、やむなく仕事をやめましたが、83歳まで働いていました。勤め人の頃の営業先のお客さんでは94歳で現役の方がいました。訪問すると、曽孫さん玄孫さんが家に来ていまいた。そういう人たちの方が毎日楽しそうです。

道徳の時間のプリントに出てきたタイプの人達が「あの人はお金に困っているから働いている」という思い込みはどこから来るのでしょうか。苦しみながら働いている、旦那の犠牲になっているという思想はどこから来るのでしょうか。今でもよくわかりません。

犠牲の道徳 曙光 221


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