臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす。そして無分別な人間は、同情に反対のことが言われると憤激を示す。 曙光 289
先月、「いろんなことに挑戦していきたい!」「どうしてでしょうか?」という問答について少し触れました。「挑戦したいからです」への挑戦状ですね。
「臆病者の間では、勇敢さに逆らうことを言うのは低劣に響き、軽蔑を引き起こす」
とニーチェは言いますが、確かに臆病だからこそ奮闘している姿に、自己陶酔するのでしょうか。チャレンジすることに限らず、残業時間を自慢しているようでは同じようなことです。
それらの姿は、親御さんたちにとっては微笑ましく、幼少期から褒められてきたのでしょう。その時の記憶のまま、未だに同じようなやり方から離れられず、臆病者だからこそ「他人に認めて欲しい」などと思うのでしょう。
「『他人に認めてほしい』という気持ちはだれでも持っている」という人もいますが、僕はそんな気持ちは持っていません。
なぜならば、といっても繰り返しになりますから、それは過去記事を参照してもらうとして、挑戦すること自体は特に問題ありませんが、特に人にアピールするようなことではない、ということです。
アピールと言っても「今これをやっています。今これに挑戦しています」という旨を一切言うなということではありません。例えばアピールすることによって関連業種などで良きパートナーとして手を上げてくれる人もいるからです。
問題はアピール自体ではなく、アピールの動機です。
ある目的があるから協力者がほしい、お客さんを探すために宣伝もしなければならない、という点ならいいですが、「挑戦している姿を見て欲しい」というような類です。
「見てください、褒めてください」ということです。これは特に異性に限定しない「モテたい」という気持ちですね。なぜモテたいのでしょうか?
そうした「ある目的」が「挑戦している姿を見て欲しい」になってはいけません。
そして「挑戦している姿を見て欲しい」といったものでなくとも、何かしらの目的はあまり重要だと考えないほうがうまくいきます。その「目的自体」がどのようなものであれ、重要度を高いままにしておくはロクでもないという感じです。
ああ!どうにでもなれ!
なぜか切羽詰まった状況の方がよく動けるといって、体育会系は怒鳴ったりして焦らそうとしますが、なぜ切羽詰まった状況のほうが上手くいくかは、世間で想像されているような因果関係ではありません。
本当に切羽詰まると、「ああ!どうにでもなれ!」と思うはずです。
その瞬間に思いが切れます。つまり「思いっ切り」とはそういうことです。
「やるのは恐いが、今やらなければ怒られる、ということはどちらにしても恐い、じゃあいっそやってやれ」という瞬間に、何かの結果が生まれます。
しかしこれは、怒ったからではありません。「じゃあいっそやってやれ」と、思考によって堰止まっていた意図が行動に反映されたからであり、思いが切れたからです。
初めてデートに誘う時
例えば、初めてデートに誘う時に、なかなか電話の発信ボタンが押せないのはなぜでしょうか?
思考が巡っているからです。
そんな時には、考えるより先にボタンを押してしまうことです。
相手が出るか出ないかはわかりませんが、ひとまず着信履歴は残ったりします。
すると何かは動き出します。
そんな瞬間、「挑戦している瞬間」をお母さんに見て欲しいでしょうか?
僕は見て欲しくありません。たったそれだけのことです。
美徳に反対のことを言うことが禁じられる場合 曙光 289
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