ちょうど2年前の同じタイミングくらいの時に「春の感傷」で触れたように、どうしても春になると一度は悲愴な感じが訪れてきます。
それは単に冬の間の縮こまりが解放されるという程度であり、どちらかというと精神の領域ではなく身体的な領域の反応に伴ってという感じだと思っています。
例のごとく今年も数日前に瞳孔が開きっぱなしになり、体は蛹が殻を破るかのごとくになりました。
今回は泣いて目が覚めるというような感じではなく、起きている時に強烈な悲愴感がやってきて、走馬灯のように記憶が凄まじい速度でぐるぐる巡って気づけば自然と涙が出ていました。
それは主に春の思い出であり、悲しく辛い思い出を思い出して感傷に浸るというようなものに近いですが苦しくはなく、通常考えうるそれらとはまた異なったような感じでした。
まあ少なからず感じたのは「物事はすべて終わっていくなぁ」という諸行無常的感覚です。
養子のうさぎも亡くなりましたし、ガチョウの雪雄もいません。それどころか、様々な人も毎日のように少しずつ変化していて、厳密に言えばもう僕の知っているような人たちではないというようなそうした感じです。
それ自体に嘆きがあるというわけではありません。もし嘆きが起こるとすれば、それはその時点での状態への渇望があるということであり、記憶への執著があるということが必要になります。しかし、執著し得ないものに対して執著し煩悶するのは、諸行無常に対する「理に合わない」という意味での「無理」な願いであり、愚昧たる態度です。
ということなので、淡々と「すべて終わっていったなぁ」と思った程度です。
僕の場合は、悲愴な感じがやってきても「悲愴感がやってきたなぁ」と思う程度で、「まあ明日には何かしらやる気になっているだろう」ということを思って普通に寝るという感じになっています。
まあ「普通に寝る」とはいいつつも、むしろ「寝て起きるといいことがあるぞ」とすら思ってしまうので、普段の普通よりも少し明るい感じで寝ます。
そんな感じの日々がしばらく続き、あるタイミングで寝て起きると蛹が蝶になるかのごとく、どこにでも自由に飛んでいけるような状態になっています。
まあ単純にはこうした悲愴感は単なる季節的な心身の通過儀礼であり、それを経て体が春モードになるのでしょう。