某掲示板でよく相談を受けていました。
何をどうするというより
「復縁を望んでいるのですが」
といった内容についてよく回答を書き込んでいたような気がします。
元も子もないようなことを言いますが、本当に好きになりたい、好きになって欲しいのは主体も客体も「自分」なのかもしれません。
はっきり言うと、「相手に好かれて幸せを感じていた自分」を取り返したい、といったことなのかもしれないということです。
それは、自分のことが嫌いな場合に多いと思います。
相手を好きな気持ちももちろん純粋にありますが、復縁に執着してしまう場合は、概して「傷ついた自尊心の回復」だったり、先のような構図だったりすると考えます。
本当は誰かを媒介しなくてもそれは感じることができます。
妄想にふけるとかではなくて、それは体感として可能です。
本当に好きなだけだったら、「好きな気持ち」だけでいいじゃないですか。
自分と一緒にいたりすることを強制するというのはナンセンスな話です。
表現は悪いですが、ただの性欲かもしれません。
本当に好きなのかもしれませんが、そこに愛はないと思います。
行動の約束
ニーチェという人が
「行動は約束できても、感情は約束できない」
といったようなことを言っていました。
たまに聞く話ですが、親戚や友人とよく会わせて「周りから固める」みたいなことをする人がいるそうです。
「こうすれば簡単に別れられないだろう」というような退路を塞ぐやり方ですが、そんなことをして何がしたいのでしょうか。
そんなかつての大企業の「飼い殺し」の手法をとっても、感情の世界では難しいと思います。
また、非常にナンセンスな話だと思います。
お金で買えるのか?
ライブドアが世に表出してきたとき、堀江さんが言っていました
(堀江さんにも賛否がありますが、似ているところもあるので、僕は結構好きだったりします)。
「お金で買えないものはない」
そして、「女心だって買える」とも言っていました。
本気で言っていたのかは知りませんが、行動は買えるかもしれません。
「嫌だ」と拒否しても、怖い人たちの団体を使って脅したり、催眠術でもかければ、文字通り行動は買えるでしょう。
催眠術の場合、感情的なものまで買えるかもしれません。
でも、あくまで相手が自然な形でしてくれた行動でないと、本当に心底嬉しいのかというような疑問が残ります。
そんな行動を買ったところで仕方ないような気がします。
結局、買い物は、衣食住の最低限を除いて、その目的自体が「気持ち」のためなので、物を買うこと、手に入れることが目的ではありません。
「周りから固める」みたいなケースは、物と同じような扱いを「大好きだ」と主張する相手にしてしまっているのではないか、と思います。
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相手も自分も解放できたとき、復縁できるかもしれませんが、執着がある限り嫌われていく一方だと思います。
「復縁を諦めろ」というより「イライラを人のせいにしていませんか?」というようなことです。
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人を好きになれることは素晴らしいことです。
ならもう一歩進んで、相手の外見や行動や状態にかかわらず、
まごころで包んでみましょう。
思っているだけではなんなので、お金がなくても少しずつ小銭を貯金箱に入れて、ある程度貯まったら何気ない日に花束でも買いに行きましょう。
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