これまで「超人的な精神」として、「天才」として尊敬されて来たものすべてを考慮するなら、大体において人類の知性はどうしても極めて低劣で悲惨なものであったに違いない、という悲しい結論にわれわれは到達する。立ち所にかなり人類を越え出ているという感じをもつためには、これまでほんの僅かの精神しか必要でなかった! 曙光 548 序
人を欺くつもりで演じるのではなく、本人も行ききっている形で堂々と物事を説く人がいた場合、その雰囲気に周りが感化されてしまうということが昔からよく起こっているようです。
ご本人が自己洗脳状態にあって、何かしらの変性意識空間に没頭していた場合、その空気感や自信によって感化されてしまう、といった感じです。
曲芸のような「チャネラー」みたいな人にでも、なんだか雰囲気があればそれに感化されてしまう人もいます。
「卑弥呼を降ろした」と言われれば、本当に卑弥呼が話しているとすら思う人もいるくらいです。
もしその手の人がいたら、架空の人物で実験してみましょう。おそらく見抜くこと無く何某かの「イメージ」で話してくれるはずです。
実在の人物だったかどうかというところも情報なら「今その人を降ろした」という状態も情報の世界です。
だから特に大したことはないのです。
妖怪や霊が攻めてきたらどうしよう
まあ妖怪がいたとしましょう。
いたとしたとしても、妖怪はただそこにいるだけです。
スズメバチがただそこにいたように、妖怪がいたとしてもただそこにいるだけです。
人間目線で考えると、「危ない」とか「攻撃してくる」と考えてしまうでしょうが、別にそんなことはないはずです。
動物もよほど腹をすかせているか、こちらが恐怖心を持った時にファイトモードになったりします。
で、別にお互いに自然の中に溶け込んでいれば、お互いにただたんにそこにいるだけという関係性になります。
そして、幽霊にビビってしまう人がいますが、まあ何かの想念が残っていて情報として意識に影響を与えているとしましょう。
そこでそんな霊が攻めてきたらどうしましょう。
恐怖心をもつとすれば、そのまま恐怖心に引っ張られ、不快感をもつとすれば、その場で不快感を味わうことになります。
そういうわけで、マーラに攻められたときのゴータマ兄さんのようになりましょう。悪霊に声をかけられたイエス兄さんのようになりましょう。
「今ここで私を拝めば世界の半分をお前にやろう」
ゴータマ兄さん「立ち去れマーラよ!」
イエス兄さん「立ち去れサタン!」
という感じです。
実は、「デブは黙れ!」と言われたときも、そんな幽霊の恐怖心と同じような構造になっています。一種の呪いです。
呪いに抵抗することもなく、「呪いの対象である自分」を無くしてしまえばいいのです。
「デブと発した人よ、いなくなれ」というものではなく、「デブと黙れというのは関係ないだろう!」と抵抗するというわけでもなく、「デブと言われて反応しようとする『アイツ』よ立ち去れ」ということです。
そして「何かの対象を下げ、相対的にしか幸せを感じることのできないものよ。あなたを苦しめるものは恐怖心と執着なのだ」と慈しみの念を持ってみましょう。
それが無限の光となり、闇は消滅します。
そうなると、幽霊、罵声、なんでもこいです。
そしてそう思っていると、そうしたものは近寄ることすらできません。
「私は昔信じていた男に捨てられました。人間に恨みがあるので、苦しんでください。そして私と一緒に死んでください」
と言ってきたとしましょう。
「あなたは愛を感じるために他人を条件にしていた。
しかしそんなことをする必要はなかった。
あなたが感じたかった愛は、あなた自身の中にあったのだ。
しかし、それを遠回りに他人を媒介することでしていた。
そんなことはしなくてもよかったのだ。
その現実は既に無く、あなたを苦しめているのは、その記憶でもなく、その条件化にあったのだ。
今この瞬間の無常を感じ、空を悟りなさい。
全ては執着するようなものではなく、『何かを叶えなければならない』という執着こそが苦しみなのだ。
『恨みを晴らさねばならない』という執着こそが、あなたを苦しめているのだ」
とでも説法してあげましょう。
何かのきっかけがあったとしても、全てアイツの自作自演ですから。
力に対する勝利 曙光 548
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