最近では少し落ち着いてきた感じがしますが、人工知能への期待なのか何なのか、やたらとデータ偏重型な社会になりつつあります。まあそれだけ、人間の感性を信用できないとか「システムやスキームを組んでバイトにやらせる」という感覚が蔓延してきているという証なのでしょう。
データを利用した最適化への疑いということで、そんな「統計データの影響による行き過ぎ」について触れてみようと思います。
「合理化や最適化が機械にできる限界」などで触れていましたが、コンピュータが得意とする合理化や最適化です。それはそれでいいのですが、そうしてデータを用いた最適化が本当により良い世の中を作り出していけるのかはまた別問題となっています。
地元の惣菜屋さんの惣菜のレベルが著しく高く、大手スーパーの惣菜はお世辞にも美味いとは言えないという点から見ても、大規模な情報の収集など当てにならないという感じのことはすぐにわかりそうなものです。
しかしながらそうした点に限らず行き過ぎという感じで、「商品自体が置いていない」という謎の現象も起こりつつあるので、変だなぁと思った感想を書き記しておきます。
統計データの影響により商品棚から消えた商品
利潤を最大化するためのデータ利用、最適化ということはわかりますが、なぜ「ある程度需要があるもの」すら商品棚から抹消されるということが起こりうるのでしょうか?
それはきっと、実際にバーコード等々で読み取って集めた情報しか、最適化の前提となるデータとして入力されていないからです。
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先日、家族に頼まれて甘酒を買いに行きました。
まずはコンビニに行ったのですが、どこにもありません。
ワンカップの日本酒や焼酎のラインナップは増えているのですが、甘酒はワンカップ瓶のものも缶のものもありません。
それほど日本酒などを増やすなら、一種類くらい置いてくれよ、と思いつつ、店員さんに聞いても根本的に仕入れていないということだったので、別のコンビニに向かいました。
そこでもまた同様に、大量の日本酒が置いてあるにも関わらず甘酒はひとつもありません。
それまでは、毎年のように一つくらいは置いてあったのに、完全に抹消されています。
「もうこうなったら酒屋に行くしか無い」
ということで、大手の酒屋さんに行ってみました。
店員さんに聞く形で、甘酒が置いてあるコーナーに行ったのですが、900ml入など大きなサイズのものしかありません。
一応おつかいの指定としては、大関の甘酒だったのですが、ワンカップサイズのその甘酒はどこにもありません。
店員さんに「ワンカップのやつ無いですか?」と聞くと店長さんが出てきました。
「あーいまお渡しできるのはないですね」
ということのようでした。
「何でなんですか?コンビニにも無いですし、何か理由があるんでしょうか?」
と冷静に聞いてみました。
すると
「ブームが去りましたからね」
という回答が来ました。
これがデータ収集の先にある最適化ですか?
僕は甘酒が好きではない上に、ブームがあったことすら知らなかったので、そうした流れがあったこと自体はまったく初耳だったのですが、いくらなんでも、それまで何十年単位でたいていどこでも売っていたものを、一回ブームが来て、それ去ったら商品棚から消すという極端はいかがなものか、と思ってしまいました。
商品棚のスペースが勿体無いということで、売れない商品が消えていくというのはわかりますが、それまでの間は、だいたいどこでも売っていましたし、一応一定数の需要がある商品だと思うのですがいかがでしょうか。
「これがデータ収集の先にある最適化ですか?」
という感じで、ロクでも無い世の中になっていきそうな気がしました。
一応店長さんとしては「問い合わせがあったらまた仕入れることにしている」という感じで、「今度入れておきますね」と言ってくれました。しかし、問い合わせという行動を起こす人も全員ではないので、そんなことで大丈夫なのか、と思ってしまいました。
で、人によっては何も言うことなく代替物を購入する形になったりします。
そうした時に、その代替物のほうが「今売れている」と集計されるとくれば、どんどん歪んでいきます。
「統計データの影響による行き過ぎ」の代表例と言えるでしょう。
充電器が無いという現実
さて、話が若干脱線しますが、そういえば先日、福井県に行ったときのことです。前日に携帯電話の充電を忘れたまま、さらに充電器を忘れて出発してしまいました。
取引先から電話があり、少し話し込む形になったのですが、電話を切って画面を確認すると、初日の昼の段階で充電の残量が10%になってしまいました。
「うーんさすがにまずいか」
と思って、携帯電話の充電器を探しに、コンビニや大型スーパー等々様々なところに行ってみましたが、ガラケーで古型のためどこにも充電器が売っていません。
まあ、新しい機種を買わせようということになるのでしょうが、とりあえずは今回だけのことなので、携帯電話のショップに向かうことにしました。
店内を探してみましたが、やはり古型の充電器のため売っていません。
結局店員さんに話を伝え、店内で充電してもらうことになりました。
すごく助かりましたが、お話によると今や「生産していないため、取り寄せすらできない」ということのようでした。
まあつまりは充電器が壊れた段階で買い換えろということでしょうが、家にはUSB系のものと純正と2つあるので、逆に限界まで使い込んでやろうと思いました。
数値データが意味をなさない「惣菜の味」
さて、データを利用した最適化への疑いということで、惣菜の味に移りましょう。
数値データはクオリティの向上に直接寄与することはあまり考えられません。「惣菜の味」という味覚チャネルについては、言語的データはあまり意味をなさないという感じになります。
収益・採算の問題もあるのでしょうが、どうしてあれほどの従業員がいて、データ収集もしてという中、スーパーの惣菜はあれほどにクオリティが低いのでしょうか。
それはやはり「素人集団が作っているから」という感じになるのではないかと思います。
それについては二つの側面が考えられます。
ひとつは、調理の腕の問題として素人のスタッフでも作れるような構造にしておくという点の影響です。
「生の声」が品質を上げる
そしてもう一つは、本来のプロが心がけている「生の声」を聞くことによるブラッシュアップがないという点ではないでしょうか。
近くにスーパーが乱立していこうとも、何十年も営業されている惣菜屋さんは、味のみならず全てがプロフェッショナルです。
同じ人が店先に立ち、顧客の生の声を毎日聞いているのですから、広い意味でのデータ量になります。より深いデータが毎日やってくるのですから、人工知能云々に期待している人々が集める表面的なデータどころではありません。
ビッグデータ云々と、表面的なデータでも複合的に数が多くなれば、という期待があるようですが、それで多少の推測はできても深いところでのニーズなど抽出できるはずがありません。元が浅く軽いのですから当然です。
そうしたものが活用できる分野とできない分野の見極めというものは人間の仕事です。
というところの根本感性がズレていると、やはり社会をマイナスに引っ張っていくことしか無いという感じがしてしまいます。
技術の進歩自体はいいのですが、それによって楽になった分、合理化・最適化によって結局何かが失われていくというような事がよく起こります。合理化や最適化が進んだ分だけ何かが失われて、その失われた分は何かで補わなければバランスがおかしくなるということで、結局かけているコストの総量としてはあまり変化がないような気がしたりもします。
技術や機械というものは、結局今ある中で最も合理的で最も最適化されたものを最速ではじき出すということくらいしかできないような気がしてなりません。「合理化」や「最適化」が機械にできる限界であり、体感領域は、言語を用いたとしても口語で表現される領域です。それは機械でどうこうできるようなものではありません。
もちろんシステムや機械自体は悪くないという部分もありますが、機械への依存が増えると、本質的なクオリティは下がってしまう場合もあるというような点について。
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