ゲームと知能

僕はファミリーコンピュータと同い年であり、小学生の頃はスーパーファミコン全盛期であり、小学校高学年くらいから中学生の頃はセガサターン・プレイステーションの登場によってそれにどっぷり浸かるような世代です。

ファミコンが1983年、スーパーファミコンが1990年、セガサターン・プレイステーションが1994年ということで、まさに成長期がゲーム全盛期という感じになっています。

そんな中、「ゲームをすると頭が悪くなる」などと囁かれていましたが、我が家では全く逆の立場をとっていました。

あまりコンピュータのことを分かっていないながらも、おじいちゃんが「これからはコンピュータの時代やからな」と毎月のようにゲームソフトを買ってくれていました。

最近ではゲームの上手さと知能の相関関係を研究するような人が出てきて汚名返上という感じにはなってきていますが、僕たちが小学生の頃から成人するまでの間には「ゲーム脳」などという言葉を使ったり、「リアルな体験が蔑ろにされている」などなど、やたらめったらにゲームを批判してくる人もたくさんいました。

しかし我が家では様子は異なっていました。

少し坊っちゃん的な感覚にはなりますが、「ゲームはいけないものだ」という感覚の真逆で、「どんどんゲームをやりなさい」というような風潮があり、僕と弟はおじいちゃんに毎月一本ずつスーファミのソフトを買ってもらいつつ、正月にはお年玉で爆買いするというような小学生ライフを送っていました。

もちろん友達の家で自分が持っていないゲームをやらせてもらったり、その逆もまた然りという感じで、本当に数え切れないほどのタイトルをプレイしてきたという感じです。

そんな中、よくよく社会で出てきたキーワードが「ゲーム脳」でした。当時はまだはっきりゲーム脳とは呼ばれていませんでしたが、ゲームをすると子供はバカになるというようなことがよく言われていました。

でも僕は本当にたくさんのゲームをやり込んでいたので、「ゲーム脳、ゲーム脳とは言うけど、いったいどのゲームを指していっているのだろう?」と既にそうした学者の人を冷めた目で見ていました。

ゲームと一括りに言ったところで、RPGからアクション、アドベンチャー、シミュレーション、パズル、格ゲーなどなど、スーパーファミコン時代ですら多種多様なゲームがありました。

そうしたものを一通りプレイしてから、それぞれのジャンルごとに何かの実験をしたのならばわかりますが、何となくその学者のおじさんが知っているような、テトリスやインベーダーという初期のゲームのことだけを指しているのなら、この人は非常にバカなのではないかということを朧気ながら思っていました。

そんな中、ずっとゲームを買い与えてくれていたおじいちゃん(超絶甘党のおじいちゃん)と将棋ゲームを一緒にやっている時にそうした疑問について聞いてみると、

「昔は小説ですらあかんと言われとった、その次に小説はいいけど漫画はあかんと言われとった、それで今は漫画は大目に見られてゲームはアカンと言われとるだけや。いつの時代でも自分らが子供の時に無かったものを大人はあかんと言うんや」

そしてその時、将棋ゲームで対局をしているわけです。

実際の駒を使ってはいませんが、対局相手はおじいちゃんですし、やっていることは普通の将棋と同じです。

そうなると将棋がよくて将棋ゲームが良くないというのは全くもって何の説得力もありません。

こんな単純な事実が目の前にあるのだから、「ゲーム脳」などとゲームを批判している人は、一体何を批判しているのだろうということを考えていたわけです。

その後に本格的にゲーム脳という言葉が出てきて、ゲームの悪影響が裏付けされたかのようになりましたが、ゲーム中毒の人を観測しただけじゃないか、というような印象を受けました。

ゲーム中毒の人の頭を計測した結果を持ち出されたところで、その場合は既に「作業」の領域になった人の頭動きであり、知的作業から単純作業になってからの話なのではないか、ということを思っていました。

ルールを理解し、効率も考え、先読みもする

ゲームと言うからには、当然ゲームにはゲーム性があります。どのようなゲームでもそこにはルールがあり、そのルールを理解しない限り先に進むことはできません。

そしてルールを理解した上で、「どうすれば最小限の時間と手間で最大の結果が得られるか?」ということも考えるようになっていきます。

町を開発するようなゲームで、それぞれの場所の開発には時間が一定時間かかるようなゲームであれば、そうした所要時間を考えて効率よく開発を進めていくはずです。

RPGなどでは、一見無駄とも思える「レベル上げ」という局面を迎える時があります。

その時にわざわざ獲得経験値が低すぎる敵しか現れないところでレベル上げはしません。

そして、ゲームによっては非常に高い経験値を獲得できる敵キャラが出現するという仕組みが導入されていたりします。

そうなると、そうした場所でレベル上げするほうが効率的だということが理解できます。そして、それは偶然に見つけたものなのか、友人から聞いたのか、雑誌に書いてあったのかはバラバラですが、その知識・情報が必要になります。

そういうわけで「必要な情報」がいかに重要かということもどんどん理解するようになるわけです。

一度こうした経験をすると、その時は偶然遭遇した出来事であっても、それ以降は「誰かがこうした情報を知っているかもしれない。そうならば、友人に聞いて回って調べてみよう。その方が早い」というようなことを思うようになるはずです。

そうした感じで友達同士で教えあったりする「有用な情報の相互共有」という考えも生まれてきますし、何かをクリアしたり効率的に行うには、「重要な情報を知ること」が大切なのだということも分かるようになります。

そして、例えばパズルゲームなどでは、先読みの能力がついてきます。

パズルゲームは「その場の対処」だけではスコアは伸びず、ある程度先読みして準備をし、あとで爆発させるということをやらないと勝てない・高スコアが出ないというようなルールが組み込まれていたりします。将棋などはそれの代表例ですし、パズルゲームは概ねこうした仕組みを持っています。

僕たち世代の例にはなりますが、「ぷよぷよ」の「連鎖」がそれにあたります。

落ちてくるぷよぷよを単に揃えていくだけではスコアは伸びませんが、ある場所が消えるとその上にあるものが下に落ちてきてそれで配列が変わり、配列が変わったことでぷよぷよが揃って消えていく、というような多段階の連鎖を頭の中でシミュレーションして配置していくという感じになります。

これは、今落ちてきたものを単に揃えるというレベルを超えて、先に起こることを予測しておかないとできないことです。

そう考えると非常に頭を使っているはずです。

一応ぷよぷよも落ちてくる組み合わせがある程度決まっていて、何個目かでパターンが読めたりするそうですが、そこまで知った上でやる配置は単なる「作業」になってしまうので逆に頭を使っていないことになるのかもしれません。

しかしながら、一応何が落ちてくるかはランダムな状態で、かなり先になってから連鎖的に消していくために、落ちてきたものを連鎖用に配置していくという作業は、単純作業ではないのです。

そのような感じで考えると、フロントミッションシリーズでは相当頭を使ったような記憶があります。本気で考えないと本当に先に進めなかったようなことを覚えています。

それの極地は、一度取った駒をまた使えるというルールによって無数の配列パターンが出来上がってしまう将棋の世界になるのでしょう。

一つの物語を深く読み解く

よくよく考えていただきたいのですが、義務教育にしろその後の高校・大学教育にしろ、たいていやっていることと言えば一つの本を蕩けるほど読み込んで深く理解するというようなことになります。

自分で考える能力というのも大切ですが、物事を深く理解することのできる能力というのも大切です。

そういうわけで、現代文にしろ古典にしろ、言語としての理屈にも触れながら、著者が心をこめて書いた内容を理解する能力を養うことが目的となっているのでしょう。

あまり具体的な事例を出すのもどうかと思いますが、伝説の国語教師と呼ばれる、灘中・灘高の橋本武氏は、中学校の三年間をかけて中 勘助の「銀の匙」だけを取り扱ったことで有名です。

銀の匙 中勘助

銀の匙 中勘助

銀の匙は岩波文庫版で本文は200ページほどしかありません。

でもその200ページを深く深く感じることが国語力・読解力を養うということになります。

知識をつけようとする時、既に知っていることを組み合わせたり、体験と紐付いたりしないとよくよく理解することはできません。そうした中、中学生であればこの間まで小学生です。言語として既に知っていることなどしれていますから、体験を通じて感覚と言葉を紐付けないと深く理解することはできません。

そこで考えてみたいのが、RPGはその中に物語があるということです。

今ではどうなのかわかりませんが、だいたいRPGは50時間位かけるとエンディングまでたどり着くことができます。

50時間かけて一つの物語や世界の中に意識を浸からせるということです。

人物の性格や特性、人物間の関係性はもちろん、どの場所にどういった物があって、その場所の特性はどのようなものか、ということも頭の中でマップとして出来上がることになります。

で、その物語がチンケなものかと言えばそうではないと思っています。

私事で言えば、小学生の時にやりこんだFINAL FANTASY6などは、感動モノでした。

「ゲーム脳」などと批判している人は、一度ぷよぷよやFINAL FANTASYを最後までプレイしてみれば良いのです。

以前にも触れていましたが、桃鉄なら日本の地理や特産がよく分かるようになります。

そうした中、ゲームを批判してそれ以外のものを称賛するというのは少し違うのではないかと思っています。

ゲームはゲームで何かしら知能を高める要素を持っています。

もしかすると、一方的に垂れ流されて反応させられるテレビ鑑賞よりも、「やるゲームを選択し、プレイ中も能動的に選択する」ということをやっている方が知能は発達するのかもしれません。

ただの暇つぶしだと思えば暇つぶしになってしまうでしょう。

ということで、面白くないと思ったらすぐにやめるべきです。

ゲームのように面白くやるとすぐに達人になる

ここでまた私事になりますが、僕が実際に起業したきっかけについて少し触れておきます。

変な話ですが、起業することを確信したのは、「上海Ⅲ」をやっている時だったのです。

麻雀ゲームの範疇に入りますが、積み上げられた麻雀牌のうち、端にある同種の牌を揃えて消していくというゲームです。

単純に見つかったものから消していくと手詰まりになったりします。確率論的に積み上げられた牌の下に潜んでいる牌の配置を予測していかないと手詰まりとなってゲームオーバーになるという特性を持っています。

中学生の時からこのゲームが好きなのですが、勤め人の頃、すごい集中力で上海Ⅲをやり込んでいた時、

「この集中力があれば何でもできる」

そんなことを思ってしまったのです。

言ってしまえばゲームをやること自体は非生産的です。知能の発達には役立つ面がありますが、それ自体で価値を生み出すということはプロゲーマーにでもならない限りほとんどありません。

競馬の予想をしている人も、それが非生産的なことだから無駄に見えるだけで、その対象を馬ではなく、営業対象となる顧客とか広く「市場」の方に向ければ、凄まじく社会の中で役立つはずです。そしてその役だった分だけ報酬が得られるはずです。

また、そうしたことは確率論から本質を紐解くきっかけにもなります。

何事もそうですが、やればやるほど、本来の確率的な性質にピッタリ向かっていきます。

僕はギャンブルをやりませんが、そうした分析による確率という概念が理解できているのであれば、それはそれでいいのではないかと思っています。

ただ、確率論にのみ意識が向くとその確率の範囲内に留まってしまうことになります。社会においては、その範囲を自由に決められるので、変に近視眼的に確率を上げようとするよりも、フィールドを変更したほうが理に適っていますよ、という意味を込めて、「正しく観ることが確率論を超える」を書いた感じです。

上海Ⅲをやり込んでいた時、その集中力と持続力を体感し、それまでのゲームの経験から、それを現実社会に置き換えて研究していけば、どのようなことでもすぐに達人になれると思ってしまいました。

ということで、起業してしまったということになります。

現実社会とゲームの比較

現実社会とゲームを比較した時、ゲームには不足している点があります。それは物事のリアリティという面もありますが、何かをやるにあたって現実と比べて確定要素が多いということです。

一応ゲームの中でも、RPGにおいて攻撃で与えられるダメージというものは一定ではなく、通常攻撃のダメージも多少のランダム性があったり、クリティカルという要素も組み込んであるため多少は不確定要素がありますが、なんだかんだ言っても開発者がプログラミングした範囲以上の不確定要素はありません。

しかしながら現実社会では、もっと幅広く不確定要素がたくさんあります。

相手が同じ人であっても、昨日のその人と今日のその人は少し違っています。変な映画を見て変な気分になっているかもしれません。

一人の人ですらそうなのだから、たくさんの人で構成された社会などもっともっと不確定です。

ということで、そうした面をゲームと同じように考えるわけにはいきませんが、ゲームの中で登場した様々な考え方や方法論は現実社会でも通用する要素をたくさん含んでいます。

ゲームのような感覚で考えれば、意味もなく英会話を習うのはあまり意味がないことだということも理解できるようになるはずです。

また、少しの小銭稼ぎというのもいいですが、それはぷよぷよでいえば落ちてきたものを単に消しているだけに近いような感じになります。何かを学んでいく時、後の連鎖のための布石なのだ、ということを考えていれば、自分が今何をしているのかがわからなくなるということも少なくなるでしょう。

そして、その場所に落とすということが自分の中で決まっているのであれば、あとは下ボタンを押して落とす速度を速めたりしているはずです。「決めたのなら脇目も振らず行う」というのはおそらくそんな感じでしょう。

そんな中、やはりゲームと現実社会との違いの最たるものは、その結果の享受ではないでしょうか。

現実社会のほうが不確定要素が多く、時に辟易することもあると思いますが、将棋のようにパターンの多い深さのあるゲームだと思えば楽です。その面白さには、ゲームを超えたゲーム性があるという面もありますし、結果として起こることがゲームでは視覚と聴覚での体感ですが、五感を通じて体感することができるというのも現実社会の面白さです。

最近ゲームに飽きてきたという場合には、社会で楽しんでみましょう。

そうなると、事業にしろ投資にしろ全てが「やらなくてはならないこと」から「面白さを楽しむためにやりたいこと」に変わってしまいます。

そうなると誰もその人を止めることはできません。

知らぬ間に達人となり、社会においてほとんどが満たされてしまうようになるでしょう。


 

ゲームにおけるゲーム性を考えてみた時、絶対に勝てるようなものはゲームとして成り立ちませんし、面白くもなんともありません。逆に絶対に勝てないというものもゲームとして成り立ちませんし面白くはないはずです。「面白くない仕事を面白くするにはどうすればよいのか?」ということを考えてみた場合、慣れ親しんだ事柄に対してでもゲームの如く不確実性を組み込んでしまえばいいのではないでしょうか。

不確かさが面白さを作る


ゲームと言えば中心となるのは、ゲーム機におけるゲームですが、将棋やトランプ、そしてジグソーパズル等々、原始的なゲームにもたくさんの醍醐味があります。ジグソーパズルをしている時に高まる集中力の度合いは凄まじく、気づけば10時間くらい経っているということもざらにあります。仕分け分類に始まり、色彩や形状から論理的に確率を高めていく、といういゆる左脳的な戦略の時もあれば、直感で空きを埋めていくといういわゆる右脳的な作業を行う時もあり、頭を総合的にフル稼働させているという感じがジグソーパズルの醍醐味です。

ジグソーパズルで高まる集中力

Category:IT &Internet パソコンとか通信とか

「ゲームと知能」への2件のフィードバック

  1. 私もゲームが好きで、とても楽しく読ませて頂きました。

    今ではゲームがスポーツになり、さらにはゲームプレイでお金を稼げる時代(主にYouTuberなどは集客、宣伝手段としてですが)になった為、体感ですが偏見が減ってきたように思います。

    私はゲームのストーリーで興味を持ち、一部の歴史や文化が詳しくなったりしました。
    フィクションも含まれたりしているため鵜呑みは出来ませんが、それでもゲームが知識の入り口になったのは事実です。
    中には心を揺さぶられる素晴らしいストーリーもあり、感動で泣いたりすることもあります。

    今流行りの、俗にいうバトルロワイヤルゲームでは、チームで生残りを懸け、常に敵を狙い、狙われ、先を読み、仲間の行動に気を配り続け、さらには仲間に貢献したい。そんな状況で頭がフル回転しています。

    しかもその仲間は、ネット上でランダムに選ばれた赤の他人のはずなのに、余計に気持ちが掻き立てられている気がします。
    (これも執着なのかも知れません)

    話が逸れましたが、この様なゲームで得た知識・頭の回転は、社会で役立てようとすれば武器にもなると思います。

    最近では、まさに「五感で感じる究極のゲームが現実じゃないか」と思うようになりました。
    ゲームだから犯罪に手を出すとかではなく、誰かの創作じゃない世界を生身で楽しむ。という考えです。
    ゲームを楽しんでいた筈が、逆に現実の素晴らしさに気付かされました。

    そう考えても、やはりゲームは素晴らしいと思います。

    1. コメントどうもありがとうございます。

      僕も数々のゲームのストーリーに感動して泣いたことがあります。また、今振り返って考えるとセリフの中に極めて奥深い哲学的洞察が含まれていたりするものもあったりで、知識の習得の他にも何かを考えるきっかけもたくさんもらったような気がします。

      旧来のオフラインのゲームのように、一応の「終わり」があるゲーム、ある程度の区切りがあるゲームの場合は大して問題になりませんが、オンラインで時間的拘束の要素が強く、なるべくの常時接続を促すようなゲームは、プレイヤー同士の対人関係性を含めて、その空間から逃れにくくなったりしてしまう要素を強く持っていると考えられます。
      情報空間の方に没入しすぎると、現実の物理空間のことがあまり気にならなくなるということになり、逆に物理空間でのストレス耐性などが低減したりしてしまうことがあります。
      こもりきりのエンジニアにリアルな会話が苦手な人が多いのも同じような現象です。
      まあそうなると、気付きとともに五感を総動員した楽しさの方にシフトする前に現実世界で行動することが億劫になってしまうこともあると思いますので、オンラインはほどほどが一番だと思っています。

      仮に没頭してしまっている場合、没頭していたものを手放すということは、ひとつの我執を手放すことになります。一種の克己的な修行とも取れますし、それは結構厳しいですが、それに挑むことは相当の勇者であると考えることもできます。ただ、抑圧ではなく現実の観察による自然な消滅というのが理想的です。

      何かしら社会で行動を起こそうという時、様々な方法論、考え方、アプローチの仕方があったりします。
      それぞれが様々な側面として機能することもありますし、交渉においても感情面や論理面など複数の構成要素が含まれていて、どの面を中心として動くのかというところはたくさんの選択肢があったりします。

      そんな構造の中、ゲームにおける「クリアのために働かせた思考の流れ」などもひとつの方法論としてのパターンの習得になると思っています。
      例えば、囚人のジレンマに代表されるような「ゲーム理論」といったモデルの把握のようなものの一つとして、各種ゲームの内容がひとつの仮説立ての材料となるという感じです。

      また、失敗後の社会関係構造の変化や自己同一性、感覚チャネルの多さの問題で、実際の社会での行動はストレスがかかり億劫になってしまうという部分はあるものの、自我と認識的な部分を哲学的に考えると、実はゲームにおける自分の使用キャラが失敗した時と現実世界で自分の行動が失敗した時は実はそれほど変わりないという構造になっています。

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