悲しみや苦しみそのものは良きものではありません。それを発端として良きものとなりうることはありますが、それそのものが良いものではないのは自明の理です。
数多の悲劇のその内容は、その時代の生きる辛さを反映するような面があります。激的な悲劇が生み出される時、その時代背景として社会はより強いカタルシスを求めていたということが垣間見れたりもします。
表面的に見れば「何だそんなことか」と思えるような出来事であっても、表面には表れてこないじっとりとした不快な要素がたくさんあったりもします。なので本来は「わかりやすい悲惨さ」だけが悲劇であるというわけではありません。
表現された悲劇と身の上に起こった悲劇
架空のものとして表現された悲劇、身の回りで起こり見聞きした悲劇というものは単純なカタルシスをもたらすのかもしれませんが、身の上に起こった悲劇は、どうもそんなに楽観して捉えられるようなものではありません。
「起こらないに越したことはない」というのは当然であったとしても、起こってしまったものは、どうにかそれを活かすくらいにしか術はありません。
もし我が事であっても「情報」として捉えれば他の描かれる悲劇と何ら変わりはありません。我が事ではありながら継続した直接的な影響がないのであれば、それは見聞きした悲劇と変わりなきものとして取り扱うことができるはずです。
強い悲しみがもたらしてくれるもの
強い悲しみは、何かが変わるきっかけになります。
様々な「理解したい疑問」が生まれることもありますし、逆にその出来事によってずっと疑問だったことの本質が見えたりもします。
それを直接体験すること無く、様々な物語を通じて予防接種的にそれを通過し、それである程度様々なショックへの耐性をつけたいというのもわかりますが、それでもやはり生き方を変えてしまうほどの大きなショックというものは体験を通じてしか起こり得ないような気もします。
世にあふれる家族関係的な解釈とは異なる哲学的苦難
色々な物語の中でよく家族関係が描写されたりします。そこから来ているのかはわかりませんが、どうも事あるごとに父との関係、母との関係といったものに結びつけようとする解説が多いような気がします。
「幼少期に愛されなかったことから…」というような解説です。
そうした感じで捉えることができる部分もあるかもしれませんが、何でもかんでも「幼少期の母との関係」等々と絡められては困ると思ってしまうこともたくさんあります。
「四門出遊」における生老病死への問いは「家庭」とは関係がない
そうなってしまうと「四門出遊」において、生老病死というものに対する一種の哲学的苦難が起こったシッダルタに対してすら、「実の母に育てられていないことから…」などと解説されてしまう恐れがあります。
しかし、生老病死という「思い通りにならず、また、逃れ得ぬもの」である対象は、そうした家庭内の状態、母子関係がどうあろうとも関係なく、哲学的に必然性をもって「どう捉えればよいのか?」というようなことを悩み出す可能性を持っています。その疑問は家族関係などまさに関係がありません(四苦八苦 あらゆる苦しみ)。
「満たされていないという思いがあったからこそ、そうしたことに意識が向くのだろう」
というような弁明もありそうなものですが、王子として生活しながら「いかなる生活をしていても満たされるということ自体がありえない。ところで、満たされたいと思う根源は何なのだろう?」
と、疑問を持つ人にとっては、先の弁明のようなものを根拠にしてくる人間など「コミュニケーションが破綻している」と判断せざるを得ませんし、「いつまでもそう解釈しておくがよい」と断絶してしまうことになるでしょう。
「きっとここには答えはない」
そう思って旅立ってしまう他ありません。
誤解が解けても煩いが消えるわけではない
誤解されていると言えば誤解されているということになりますが、理解して欲しいということでもなく、かつ、相手が理解するにしても相手にはその土台がなく、また、理解されたからといって、煩いが消えるわけでもないという感じになっています。
それすらも一種の悲しみであり、また、何かしらで満たされるようなものではないものでもあります。
何かしらで満たされると思うのであればそれは狂気です。
その悲しみを乗り越えるのは、何かで満たすということではなく、悲しみそのものの構造自体を朧げなものとして見切ることであり、それは「乗り越える」というわけではない構造でありながら、実質的に乗り越えているようなものとなります。
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一条の光あり。
かなしき物がたりにこそ。
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