人はどこにその家を建てるべきか
現在、賃貸物件を探しながらもなかなか決まらず不動産屋さん泣かせの日々を送っています。家を買ってもいいのですが、別に買う気も特にありません。 お金をすぐに借りてしまう人の習性として、ある程度の所得があると見込んだ場合すぐに不動産を購入しようとしますが、買った瞬間に買った価格では到底売れないようなものです。 すぐに賃貸の家賃と比較して、家賃を払うくらいならローンを払うという考えに飛びつきますが、不動産の購入はハイリスクとまではいかなくてもそこそこのリスクです。 単身赴任 今ではどうかわかりませんが、家を買ってしばらくす
女ぎらい
「女性はわれわれの敵である。」― 男性としてこのように他の男性たちに語る者は、自分自身を憎悪するだけでなく、自分の手段をも憎悪するような抑制されない衝動のあまり、そう語るのである。 曙光 347 女ぎらい(女嫌い)というストレートなタイトルでお送りします。女嫌い、女性嫌悪という感じになりましょうか。 700回投稿の際にアクセス解析を見ていたら、男女比率は、男性47.27%対女性52.73%とやや女性ユーザーさんが多いようです(ただPV数、滞在時間は圧倒的に男性が多く、長いという結果です)。 そんな中、たまに女性に対
たくみな誤り
社会で良しとされているものは、ほとんどが別にいいものでも何でもありません。そこに無駄に価値をつけすぎている事自体が、無駄な苦しみを増やしています。 無駄に価値がつけられているものを価値あるものと思い、所有から制限が生まれ、煩悩を増すことになるということを見誤ってしまうという点がたくみな誤りという感じになるでしょう。 何かを所有することは、その効用を享受できるという意味で確実にプラス要素だと思われていますが、その実は、それが原因で煩いが増え、また、行動が決定される要因になります。 所有から制限が生まれる 「所有」とい
うめあわせの良心
ある人間が、他の人間にとってその良心となる。そしてこれがとくに重要であるのは、他の人間がそれ以外の良心を全く持っていないときである。 曙光 338 互いに埋め合わせる、というような時は、互いに穴があるということです。仕事上の向き不向き、得意不得意を埋め合わせる位ならいいですが、心にぽっかり空いた穴を誰かに埋めてもらおうとしてはいけません。 その穴は虚像です。それまで得てきた情報から弾き出した不足の想像であり、そんな穴はどこにもありません。 それが愛であれ、友情であれ、温もりであれ、不足を見つけてそれを埋めるというの
天気について
天気が非常に異常であって、当てにならないと、人々もお互いに信用し合わなくなる。彼らはその上改革好きになる。なぜなら自分たちの習慣を脱しないわけにはゆかないからである。そのために専制君主は、天気が道徳的であるすべての地方を好む。 曙光 320 雨の日は営業に出ずに資料の整理などをした方がいい、と言われることがあります。それ程に天候によって人の気分などコロコロ変わってしまいます。晴れ晴れとした日には気分も爽やかになり、雨が降るときには少し感傷的になったり、少なからず実感があるようなことです。 コロコロ変わる天気 「コロ
道徳の空位時代
いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半 理性で判断すると、たいてい行き詰まりになります。思考が行き詰まった時に、その理屈に「根拠なし」ということが、わかった時点で、自由や解放の方向に向かうきっかけになればいいのですが、どうもまた堂々巡りが始まるくら
商売に精通していないのが高貴である
教師として、公務員として、芸術家として、その美点を最高の価格でだけ売りつけたり、その上にそれで高利貸しをしたりすることは、― 天賦の才や素質を小売商人の仕事にすることである。人はその知恵を何といっても小利巧に利用しようとしてはならない! 曙光 308 最近福祉関係の仕事をされている方とお話する機会がありました。福祉関係と言っても、運営は株式会社であり、どちらかというと福祉っぽくない方でした。 どういうことかというと、その方のお客さんは福祉関係者であり、その方は株式会社としてサービスを提供する側なのですが、意見の食い
けち
買い物のとき品物が安いとわれわれのけち振りは増して来る。― なぜか?小さな値段の差が、たった今けちの小さな眼をこしらえたからであろうか? 曙光 305 「けち」は、吝嗇(りんしょく)を意味しますが、節制とは異なり、細かな点についてでも物惜しみをするような様を意味します。 ニーチェの「曙光」には、今回のように「けち」や「浪費」という言葉がちらほら出てきますが、やはりそういう言葉が出てきた時はたいていお金にまつわるテーマになります。といいつつ「見え坊で、けちで、賢くない」の時は、パンチングマシーンの話になりました。 特
一度、二度、三度正しい!
人間というものは、口では言えないほどしばしば嘘をつく。しかしそのことをあとから考えない。そんなことがあるとは一般に信じない。 曙光 302 現在最多PVでお馴染みの「すぐにお金を借りる人」は、何かでお金が入用だとしても、その焦り、その問題がお金を借りることによって解決した場合は、お金を借りたことを忘れます。お金を借りてしまう人の特徴は、参照先をご覧ください。 そして、油断していると金銭感覚というものは周りの人から少しずつ影響されてしまいます。家族や友人の中にギャンブルなどをする人がおらず、自分はギャンブルをしないと
浪費
興奮しやすく突飛な性格の人々にあっては、最初の言葉や行為はほとんどいつも彼ら本来の性格を特徴つけるものではない(それらは環境によって示唆されたのであり、いわば環境の精神の模倣である)。しかしそれらはたしかに語られ、なされたのであるから、その後に続く性格に基づいた本来の言葉や行為は、しばしば調停や、回復や、再忘却などに費やされざるを得ないのである。 曙光 290 浪費と消費、似て非なるこの言葉たちは、無駄遣いと生き金、というわかりやすい尺度がありますが、一般的に言われる消費ですら、厳密に言うとほとんど浪費です。 浪費
家庭の平和と魂の平和
われわれの普通の気分は、われわれが自分の環境を維持することのできる気分に依存している。 曙光 283 自分の環境を変化させる事こそ、「ひとまず今のままでも大丈夫なのに新しく危険なことをする必要はない」という抵抗感を一番感じる時です。家庭の平和と魂の平和という言葉のごとく、気分としての平和な状態を強く望んでいます。 確かに新しく危険なことをわざわざする必要はどこにもありません。 したいとも思わず、というのならばいいですが、心の何処かでは、「本当はやりたい」と思っているにもかかわらず、それを現実的に考えた時に出てくる煩
悪人たちの幸福
― 悪人たちの幸福 それは、衝動によって駆り立てられ、社会に洗脳されたまま恐怖心に怯え、罪悪感を許容し得たお金で、「優越感」や本能的欲求を満たすこと、といったところでしょうか。うーん、他にもありそう… さて、今回は、先日「受けた」というよりも「付き合いで同席した」セミナーの感想とでもいきましょう。 自己啓発洗脳組のありがたいお話 いやいや、今回はゆるく行きましょう。カタイような表現ばかりで疲れる、というようなことを避けるために、という試みです。その方がスイスイ書けるような気がしたということでゆるゆるで行きます。 今
考慮せよ
罰をうける者は、行為をしたものともはや同じではない。彼はいつも罪を贖(あがな)う山羊なのである。 曙光 252 「本を読めば、本を読む前とは別の人間になる」、よく言われるキャッチコピーのようですが、確かにある経験をする前とした後では、当然に別の意識を持っているので別の人間になります。 本を読む前と読んだ後では、意識の中に入っている情報内容が変化するので、少なからずは変化するはずです。 しかし、癖というものはなかなか取れません。 これは、行動の元になった原因が消滅していないと、また同じようなことをするという因子を内在
去就に迷う
去就に迷う。 ー 「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。 世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。 イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探すべきです。 仕事に限らず、それがコミュニティであっても、パートナーであっても、それまでの歴史・実績的なものは頭から外して、これからの身の上をどうするかを考えねばなりません。 詐欺的と
自主
自主(その最も僅かな服用量では「自由の思想」と呼ばれる)とは、権力を好む者が結局受け入れる諦めの形式である。― 支配することの出来るものを長いこと求めて、自分以外の何ものをも見出さなかった、その彼が。 曙光 242 自主は自主以外の用途で使われることがあります。プライドを保ったまま服従するために、自己説得を行う場合と、「任意という名の強制」を支配者側がこれもプライドを保ったまま、美しく見えるように、また、法の穴をくぐり抜けるために用います。 自主的にという場合には、本当に自分発端で行うものです。しかし「自主的に動け
「効用的。」
現在、道徳的な事柄の感覚はきわめて縦横無尽であるので、ある道徳が、この人間に対してはその効用によって示され、あの人間に対してはほかならぬ効用によって反駁される。 曙光 230 効用というものは極めて主観的なものです。主観的でしかありえないものなのに、その「ご意見」を寄せ集めて「客観」とし、様々な説得に使われていきます。まずは効用そのものについて触れていきましょう。 効用とは 広義には、「使いみち・用途」や「効き目・効能」などを意味しますが、狭義の効用(utility)とは、ミクロ経済学の消費理論に出てくるものです。
お金を貯める増やすコツ
この「金融」テーマに関しては実は半年ぶりくらいの投稿になるようです。前回のお金を貸す人借りる人では、お金を借りに来る人の心理について触れましたが、やはり「お金テーマ」はみなさんの関心を引くのでしょうか、現段階で最も閲覧されている記事になっているようです。 インターネット空間でも、金融や投資・保険などは広告収入の単価が高いので、様々な記事が乱立していますが、記事を書いている人はほとんど素人です。株式の運用に関しては実際にトレードをしている人もいるでしょうが、広告目的のサイトはほとんどが素人です。あふれている情報を「ま
その弱点を芸術家として処置する
もしわれわれがあくまで弱点なしではすまされず、それをわれわれに対する法則として結局やはり承認しなければならないとするなら、私は各人に少なくとも、彼がその弱点を自己の美徳の引き立て役にし、その弱点によってわれわれが彼の美徳を熱望することができるほどの、芸術的な力を希望する。 曙光 218 前半抜粋 弱点というものは基本的に隠される事が多いでしょう。それは弱点をつつき、「いじめてこようとする人」が、かつて存在し、今でも付近に潜んでいる可能性があるからです。 世の自己啓発コンサル、通称エヴァンゲリオン、じゃなかったエバン
敵の意見
もっとも物分りのよい頭脳であっても、生来どれだけ緻密であるか、あるいはどれだけ低能であるかを測るためには、それらがその敵の意見をどのように把握して再現するかを、われわれは注意すればよい。このときそれぞれの知性の生まれながらの度合いが自分の秘密を漏らす。― 完全な賢人は、そうしようと望むわけではないのに、彼の敵を理想にまで高め、敵の矛盾を一切の汚点や偶然性から解放する。それによって彼の敵が輝かしい武器を持った神になったとき初めて、彼は敵と戦うのである。 曙光 431 よく敵と論争になった時、「意見そのもの」とは別の属
生贄の道徳
諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うことがあるでしょう。「自分を捧げている力強いものと今や一体である」という陶酔です。 主義や組織との同化による陶酔とでも表現するべきか、宗教への狂信というものだけでなく、組織としての国家への
人生に失敗した人々
人生に失敗した人々ということで、人生の失敗について触れていきます。世間でもよく失敗という言葉が使われたりして、「人生に失敗した」とか「失敗続きの人生だ」とか言うようなことを嘆いたりする人がいます。 本来失敗の対義語である成功ですら曖昧な理由で生まれた「願望」の達成くらいの意味合いであるはずですが、世間では、成功とは経済的成功とかお金持ちになるとかそんな雰囲気で語られていたりもします。 自己啓発コンサルの視点から見れば成功とは金持ちになることであり、失敗とは貧困に喘いでしまうことになるのでしょうか。 そしてその「成功
不平家
それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」という状態があるはずです。 不平家とは、そうした不平や不満をもつ者、「公平ではない不平な状態」を厭い嘆く者という感じになりましょう。 平等教育が進み、何かにつけて平等であり公平であるべき
われわれのすべてが非理性的である点
われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99 理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。 感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響かないため、経済社会においても感情に働きかけないものは全くに近いくらい売れません。 理性的と言われるような人たちにおいても、よくよく観察してみると単に理屈っぽいだけで、その実、感情に振
道徳的になるのは、道徳的であるからではない!
道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でも、ありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。 曙光 97 つまりは校則に書いてあるからとか、上司にそう聞いたからという理由で「道徳」を守っているかのようなギムキョな言動は、道徳的なものではないということでしょう。奴隷的・思い上がり・利己心・諦め・陰鬱な熱狂・無思慮・絶望の行為、よくぞここまではっきり書いてくれたものだと少しニーチェに「ありがとう」を言いたくな
法の履行
本来的に罰則規定のない努力義務規定というものは、民事的な賠償問題に発展した時に加味されるようなもので、特に「白い靴下しか履いてはいけない」というような義務教育の「校則」というものは、何の拘束力もないようなことです。 学校教育においては、一応相談室に呼び出して、拘束し、指導することが「正当」になる根拠として置かれていますが、その「校則」自体の正当性はどこにもありません。 私立の学校なら、私立の学校法人が教育というサービスを提供するにあたり、その利用規約として定めている、というようなこともまかり通りますが、公立の中学校