去就に迷う

去就に迷う。

「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。

世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。

イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探すべきです。

仕事に限らず、それがコミュニティであっても、パートナーであっても、それまでの歴史・実績的なものは頭から外して、これからの身の上をどうするかを考えねばなりません。

詐欺的と軽い詐欺

それが仕事とされることであっても、法的にも倫理的にもマズイという一例は、詐欺的な営業方法として以前に書きました。昔の職場で、ある人がとっている営業手法について、それは法的にも倫理的にもマズイのではないかということを、管理者に相談したことがあります。その時のやりとりは未だにはっきり覚えています。

「すると君は、この仕事は詐欺みたいな仕事だと言いたいのか。詐欺のような仕事だと思っているのか」

「いえ、そういうわけではありませんが」

「俺達の仕事はな、詐欺みたいな仕事じゃない。軽い詐欺だ」

こういうやりとりもこの世にはあるものです。

その日の帰り道、職場の近くがビルの工事をしていました。工事自体はだいぶ前からやっていたのですが、それまで気にもしなかったような、キャッチフレーズが、急に気になりだしました。

「子どもたちに誇れるしごとを」

その時のがっくり具合は相当のものだったように記憶しています。そこで居直れる人も世の中にはたくさんいるでしょう。しかし居直らなかったのは正解だと思います。

なぜならば、「仕事なんだから仕方ないじゃないか」と居直っている人で稼いでいる人はいても、幸せそうな人は一人もいなかったからです。

自作自演のプロセスとしての詐欺的要素と労力

そのように「仕事だから」と居直るタイプの人は、その詐欺的な仕事で稼いだお金で、高級品を買ったり、毎晩のように飲みに行ったり、部下や後輩に偉そうにしている人ほとんどでした。

そうした居直る人たちにおいては、それがその人の「生き方」というより、もしかしたらそのような行動を取らないと気持ちがおかしくなってしまうのではないか、そのように振る舞わないと、心のバランスが取れないのではないか、そんなことを思っていました。

日常が詐欺のような仕事ぶりであり、どこかしら葛藤や居直り、虚無感を感じつつ、それでも見栄があるため成績を残し、そうして崩れた意識のバランスを散財することで保とうとしているようにしか見えませんでした。

そういう人たちは、たくさんの消費物などで何かの気持ちをごまかさないと、発狂してしまうのではないかということを考えていました。

質の悪い臭いをかくすための偽装

実質的な効用は無い

その時すでに消費物は、物自体が直接物理的な効用をもたらしてくれるというより、心理的な付加価値によって、気持ちの面での満足をもたらしてくれるという性質を考えていました。

しかしその気持ちの面での効用は、想像力であって、実質的な効用は無いということも知っていました。

10倍の値段の時計が10倍の便利さをもたらしてくれるわけではないからです。

その時計の価値に引っかかって反応してくれる人もいるのかもしれませんが、その手の人の反応が欲しいとも思いませんでした。

羨ましがられたいという渇望感

それは、その人に羨ましがられていると自分が感じて、自分が勝手に喜ぶというもので、その手前に羨ましがられたいという渇望感が無駄にあるということをすでに見切っていたからです。

つまりは自分で求めて、自分で与えたという自作自演に、他人が媒介しているだけで、そのプロセスに詐欺的な要素と行動の労力が伴うならば、何をしているのかわからない、といったことに気づいていたからです。

そういうことに気づいたのなら、それが仕事であれ、何かの集まりであれ、人生を共にしようと誓ったパートナーであれ、すぐにさらっと捨て去るべきです。

去就(きょしゅう)に迷う 曙光 166

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ