第1700回投稿記念
これで1700記事目になります。ブログ創設から1700回目の投稿ということで「第1700回投稿記念」です。 前回の第1600回投稿記念は、2019年10月10日だったので、前回からの100記事は、3ヶ月弱かけて投稿したという感じです。年末の空き時間の影響もありますが、「笑う月」によってスピードが高まったという感じです。あと少し書庫の植物も増やしたことが若干影響しているでしょう。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうござ
プライバシーの盲点
プライバシーの盲点としてよく語られるのが、スマートフォン関連であり、とりわけソーシャル系ということになっています。 画像の高解像度化により「指紋が読み取られてしまう」ということが囁かれだしたりなんかして、運営側も「アップロード時に画像を自動で圧縮する」などなど、そこそこ対策をしたりしているようです。しかし、可能な限り自己防衛しておくに越したことはありません。 個人情報保護に関する法整備がなされたり、個人レベルでも個人情報保護の意識が高まったりして「プライバシーを守ること」には敏感な割に、その実、やっていることは「筒
職業的誇りを傷つけられたせいか
職業的誇りを傷つけられたせいか「僕は皮膚の専門医ですよ」とキレてきながら思いっきり誤診していた医師と出会ってからというもの、医師にも相当のレベルの差があるのだろうということを思うようになりました。 当のその医師は、保健室の先生が「帯状疱疹」だと言い当て、別の医師が「帯状疱疹ですね」と診断した症状を、この腫れは「虫に這われたから起こった」と一点張りをしていました。 僕が寝ている間に掻いた部分を毒虫に這われた痕だと主張していました。 まあその手の人間は、職業的誇りというよりも「自分は我慢をしてみなさんよりも勉強しました
いたずらに感傷的になるのはよして
今日、僕は少し感傷的になりました。 それは、間接的に来る仕事の話において、医師たちの拝金主義的な意図を垣間見たからです。もちろん僕はその手の人に手を貸すことはありません。 しかし一方で、その手の拝金主義の医師たちに便乗する金融機関やコンサルタントなどもいることは事実であり、そうした人の様子を見ると少しばかり感傷的になったりもします。まあ広義の怒りにはなりますが悲しみがやってくるという感じです。 「ああ私よ、いたずらに感傷的になるのはよしなさい」と自らが自らを諭すような不思議です。 患者は経済社会の中の消費者・顧客で
見解は最初から一致していた
数年前のことですが、某業界の国内での第一人者的な方と共同で仕事をやりかけたことがあります。 「やりかけた」ということで実際には実施しておらず、結局は双方に関わる共通の依頼主が「ロクでも無い系」だったので、準備段階で頓挫したという感じになりました。 ただ、その人と語り合う中でも、やはり「見解は最初から一致していた」という感じで、ある種分かり合う者同士は喧嘩にならないということを実感しました。 「敵視」から「共に辞退」へ 最初その方は、様々な案や詳細事項の連絡を出し惜しみをする僕のことを若干敵対視されていた感がありまし
かなりの努力を要する作業
世の中には微妙に高額に思えるサービスがたくさんあります。 その中の一部は「単にぼったくりなだけ」という感じですが、料理における、「完成物の容量は安価なものと同じくらいでも、仕込みの手間が膨大」というような感じで、かかる手間の分だけ高額になっているものもたくさんあります。 そういえば、芸大で教鞭を取っている友人から次のようなことを聞かれたことがあります。 「今後イラストレーション等々で食べていきたい学生から『ロゴ作成』なんかの世間の値段の幅について聞かれることがあるんだが、どう説明するのがいいだろう?」 まあいわば、
これが人間か
「アウシュビッツは終わらない」を改めて読もうと思った時に、2017年に完全版として「これが人間か」が出ていたため、そちらを読むことにしました。 プリーモ・レーヴィ著「これが人間か」には、彼が体験したアウシュビッツ強制収容所での経験が綴られています。 「私はこの本を書くにあたって、犠牲になりましたというあわれっぽい調子や、復讐を叫ぶたけり狂った調子を捨て、証人が使うような節度ある平静な言葉を慎重に用いた。私の言葉が感情を抑えた、客観的なものになればなるほど、それだけ信用の置ける有意義なものになると考えて」 と記される
先を争うようにして駈けて行く
「争いの先、突っ走った先に何もなかったらどうするのか?」ということが見えないまま、モテをこじらせたように「一生懸命がカッコいい」という感じで奮闘している人たちがいます。 それはそれで個人的志向でやってもらう分にはいいのですが、他人を巻き込んだり、はたまた自分たち以外の人を愚弄したりするということになることがあるので困りものです。 勤め人は企業の奴隷であるというようなことは、ある方面から見れば正しくても、そうした企業のチームの中でないとできないことがあったり、それを独立してやるには効率が悪いという感じになっていたりし
相手が案内人である以上
以前にも少し触れたことがありましたが、睡眠中を含め、空間からの脱出が難しく、身の安全の確保が意識に上るサービスほど、丁寧な接客となるという感じになっています。 旅館業はもちろん、飛行機などもそうですし、本来は電車や長距離バスでも同様の配慮が望ましいという感じになります。 生理的欲求や安全の欲求を考えれば、事実上密室空間の中にいることや無防備な睡眠中等々、生存の安全性に意識が向く場所でのサービスにおいては、その「逃げられない」という要素の強さに応じてお客に安心してもらうための配慮が望ましくなります。 ビジネス研修に生
総員玉砕せよ!
「この『総員玉砕せよ!』という物語は、九十パーセントは事実です」 と、あとがき「あの場所をそうにまでして…」で記されているように、水木しげる氏の実体験に基づく「ほぼノンフィクション戦記物」である「総員玉砕せよ!」。 一年ちょっとくらいになりますが、「水木しげる 魂の漫画展」に行った時に知ってその場で買いました。「総員玉砕せよ!」の単行本の初版は1991年10月のようで、その時購入した講談社文庫も1995年6月に出ていたようですが、その日まで存在すら知りませんでした。なお、「総員玉砕せよ!聖ジョージ岬・哀歌」という題
顔見知りの犯行ほど残虐性もひどい
何かしらの犯罪に関しては、「顔見知りの犯行ほど残虐性もひどい」というのが常であり、赤の他人に対するものであれば、実利だけが目的とされるものの、顔見知りに対するものであれば怨恨というものが含まれるからということになるでしょう。 実利の部分が金品なのか、愉快犯における愉快さなどの無形のものなのかはわかりませんが、赤の他人を標的にしたものであれば、そうしたものを獲得することが目的であり、なるべく無駄なことをせずにリスクを低減したいということは当然という感じです。 というのが基本でしたが、僕たちが中学生くらいのときから「変
強い仲間意識で結ばれた間柄
いつまでも周りには誰かしら友だちがいるだろうと思いきや、社会生活の中での区切りごとにそうした友人知人はどんどん姿を消していきます。 強い仲間意識で結ばれた間柄というと基本的にはかなり長い間親しく付き合いのある親友たちということになりますが、こうした友人たちとは別に仕事上におけるプロ同士の仲間意識のようなものもあったりします。 今ではあまり積極的に人に会うことはありませんが、それでも先日名刺のストックが切れたので、会っていないようで会っているという事実に気づいたりしました。 しかしながらそれら関係の人は、付き合い自体
例外的な偶然の産物
自然淘汰を考える上で重要なのが、誰かしらが何かしらの「違う可能性を試す」という感じで例外的な偶然の産物として生まれ出ることです。 古典的な形で予定説的に考えると、因果は決定しているという感じですが、決定しているのは確率であり、確実の方ではないという感じになります。確率の次も確率ということになれば、それこそ可能性的には無限に不確定・不確実ということになりますが、それでもだいたいの確率でそれが起こるという感じになっています。 時間の概念から考えると「例外的な偶然の産物」が「ご新規さん」として生まれるというより、既に内包
廃物、もしくは廃人のイメージ
廃物、もしくは廃人のイメージに一種のかっこよさを感じ、退廃的な雰囲気に酔っているような感じの人もいます。 別に完全燃焼したというわけでもないにもかかわらず、その廃人感に一種の美徳さえ感じ、そこに僅かばかり含まれるような芸術性と同化することで、自己陶酔しているような感じです。 まあそんな人を観察してみると単に何かの資格試験に落ちたとかそうした程度だったりします。 「期待したルートから脱落して絶望」といった感じでしょうか。 ただそうした「期待したルート」すらも、朧気なところか生まれ、虚像を実体であると錯覚して夢になった
人間を咀嚼する大地の口
人間を咀嚼する大地の口 ― それは現代においては、インターネット空間、そしてその入口として用いられている、かなり広範囲の層にまで広がったスマートフォンの画面かもしれません。 混乱、意識の散らかり、気力の不足、それらの要因を静かに観ると、気力を奪い取られているという構造があるように見えます。 実際に役立つ部分と比較すれば割に合わないような、気力の浪費が起こっており、端的には、時間を潰せているのではなく、気力を奪い取られていると考えるほうが無難でしょう。 区切りのなさがもたらす気力の浪費 その要因の中で最大のものは、お
べつに禁止されていたわけではないが、めったに近付かなかった
「べつに禁止されていたわけではないが、めったに近付かなかった、という対象は意外にも多かった」というようなことを思うときがあります。 わかりやすいもので言えば、僕は歓楽街にも行きませんし、街で知らない異性に声をかけたこともありません。 その理由は、2つの方向から示すことができます。ひとつは、「行かなかったり、しなかったりしても別に困らない」というものであり、もうひとつは、そんな感じで「困ってもいないもの」に潜むわずかながらのリスクです。 ぼったくりバーに出会うリスクとリターンの少なさ いわば「ぼったくりバー」などが代
現代の精神状態の反映として
現代の精神状態の反映としてわかりやすいのが、音楽や映画などなど、文化面において「何が流行っているか?」というような点になりますが、最も如実に表すもののひとつが「笑うポイント」であると昔から思っています。 先日たまたま知人の教え子である大学生たちとお話をしましたが、一番感じてしまったジェネレーションギャップは、強烈さへの耐性とか、笑いへの昇華への部分であるような気がしました。 特定の文化や出来事について、知っているとか知らないとかそうした部分はさほど問題になりません。 しかしながら、何事も真面目くさってしまうという部
フィルムの使用量は信じがたく低い
安部公房氏の笑う月が刊行された昭和五十年の時代においても、「フィルムの使用量は信じがたく低い」と表現されるほどに、日本においては、カメラの所有数に比べてフィルムの消費量は著しく低いということのようでした。 現代においてフィルムカメラを使用するということは、もはやマニアの域に達していると言わざるを得ません。 デジタルカメラが普及し、携帯電話などで画像が撮れるようになり、かつ、それらの解像度が高まっていくに比例してフィルムの価格は高騰していきました。 フィルムの価格と現像代 そしてそれと比例するように現像代も高まってい
めったに体験を語らない
情報量の多さに関して、それが量としてばかり計算され、要約されていれば浅く、多ければ深いというような推測から、その実際の深度は問われていないということなのか、体験もしていないもの羅列すれば良いという感じになっていたりします。 すなわち実際の体験などどうでもよく、「情報量」さえ多ければそれが評価されるというような感じです。 一時期量産された「おすすめ○選」などのページに関してはその代表例であり、実際に使ったり、現実的に接したのかというとそんな訳はないだろうという感じになっています。 何を根拠におすすめされているのか?
滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さ
滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さこそが青春たるものであるということのようで、狼狽えること無く突き進むことができるその衝動こそが成長の原動力であるという感じになるのでしょう。 まあそうした滑稽を自覚できない一途さや、自分を客観化できない視野の狭さ自体は別にいいのですが、その場限りならばそれほど大したことにならないようなことでも、インターネットでそれが起こると収集がつかなくなることがあります。 情報が反芻され、また、特定領域でしか操作できない 現実的に集まっている時、とりわけそこそこの人数でいる
ずぶの素人よりはましだろうと
ずぶの素人よりはましだろうということなのか、自称コンサルタントの方の中には、名刺の裏の業務案内に「節税のご相談」ということを平気で書いていたりします。もちろん税理士資格を持たれているわけではありません。 無償でも税理士法違反になるということを知らないということになりますが、そのあたりを確認もせずに平気で名刺に書くのだからちょっとした絶望がやってきたりします。 金融や不動産などを扱ったりする「税が絡む業種」の方でも、営業活動においての説明に関して、一応事実としての一般論しか話してはいけないということになっていますが、
蓄音機という牢屋
製品の開発において「とりあえずベータ版で出してみて、不具合報告があれば修正する」とか「後々機能を追加する」というような方針の方が、投資回収期間の関係で収益が上がるという感じの風潮が蔓延しています。 そうした収益性から起こったようなベータ版の風潮と、近年のアプリケーションのアップデートのあり方などでユーザー側にもその感覚が広がり、そうしたあり方がスタンダートとなった現代では、あまり煮詰まらないままに物事がスタートするということがよく起こっています。 サービス業における企画のようなものも、やれ価格の変更、条件・規約の変
万一の僥倖をたのんでの事だろうか
万一の僥倖をたのんでの事でしょうか、定型文的な営業メールが未だによくやってきます。 まあ営業メールにおいて、調べても出てこないような業務形態のあり方が垣間見れたりするので少し面白かったりはするのですが(めったに体験を語らない)、もうそろそろいい加減にそうした文化は廃れていけばいいと思っています。が、それでも一定数の人が引っかかるからこそ今でもそうした手法が取られているのでしょう。 こうした旨は、数撃ちゃ当たるの発想と営業代行で触れたりしていましたが、最近来たものはもっとひどく、差出人としての名前と、文末の署名欄がバ
見晴しのきく場所は、同時に見られやすい場所でもある
見晴しのきく場所は、同時に見られやすい場所でもあるということなので、高い位置にいる事自体はいいですが、同時にリスクを増やすことにもなります。 何かしら代表となったり、壇上に立って話をしたりすると、「その注目を浴びるはずなのは私だ」というような僻み根性を持った人たちからの反発を浴びることになることがあります。 そのような現象はどの業界でも同じだと思いますが、本来人の成功のようなものと自分の成功のようなものは関係がありません。 まるで唯一でなければならないかのようなその頂点への嫉妬は、認知的な歪みから生じています。 認
野生化が進むにつれて
野生化という表現が良いのかどうかはわかりませんが、事業等々どんどん事が進んでいくと実践的で実務的な話ばかりになり市販化されている「それ系の情報源」に触れる機会が減っていきます。 まあもちろん直接的に関係しているものは、継続的に情報に触れることもありますが、「あたかも社長が読んでいるかのような名前の雑誌」などは、そうした人になりたい人たちが読んでいるというのが実情で、本当に社長をしている人は全く読んでいなかったりします。少なくとも僕の周りの社長仲間たちは、そうしたものを読んでいる人はおらず、やはり「若い時に少し読んだ