友情
久しぶりの「曙光」です。前回の更新から2ヶ月近く経っていますが、再開です。今回から曙光を持ち帰ることにします。 さて、「友情」です。シンプルなタイトルですね。今回は引用は避けておきましょう。 最近、若い事業家仲間のひとりがマルチネットワークにハマり出しました。その話を、他の人から聞いたのですが、その人は彼に会った時にマルチネットワーク
「道。」
いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ― そして道を失う。 曙光 55 毎度のことながら「道」という言葉を見るとどうも松下幸之助氏を思い出してしまいそうになりますが、それはさておきましょう。 ただひとつの道 昔からよく「近道を選ぶとえらい目になる
われわれの師
若い頃われわれは、師と案内者とを現代の中から選び、われわれがまさしく遭遇する範囲の中から選ぶ。現代は、他のいかなる人たちよりもわれわれに適した師を有するに違いない。あまり探さないでも師は見つかるに違いない、という無思慮な確信をわれわれは抱いている。 曙光 495 前半 「師と弟子たち」などで触れていますが、師というものがいた試しがあり
崇拝者
いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者は、自らの党派の絞首刑吏のひとりである。― たとえこの者と同じ党派であっても、われわれは彼と握手しないように注意する。 曙光 355 「いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者」 世界中どこにでもこのタイプの人がいます。気に喰わない場合は、晒し者にしたり、時に
こんな小さな真理!
「真理」という字を見ると胡散臭い印象がしてしまうため、あまり使いませんが、なぜ胡散臭い団体ほど真理という言葉を使うのでしょうか。 やはり、「あなた達の知らない真実」という旨で使うのでしょう。そして私は知っていて、教えてあげるから私を拝みなさいというようなことを思うのでしょう。 残念ですが、彼らの言う真理など「再現可能性のない妄想だ」と
懐疑から救済されて
甲。他の人たちは、不機嫌になり、弱気になり、腐蝕され、むしばまれ、それどころか半ば喰い破られて、一般的な道徳的懐疑を脱する。― 僕はしかし、以前よりも勇敢になり、健康になって、獲得し直された本能で持って脱する。(略) 乙。君は懐疑家たることをまさしくやめたのだ!君は否定するからだ!― 甲。だが同時に僕はもう一度肯定することを学んだのだ
賢者の非人間性
すべてのものを粉砕する賢者の重い足どり― 仏教の歌によると、「犀のように孤独に歩む」― には、時々和解的で穏やかな人間性が必要である。しかもあのいっそうすみやかな足どりや、才気あるあの愛想のよい社交的な言い回し方ばかりでなく、機智や一種の自己嘲笑ばかりでなく、矛盾さえも、世に行われている不合理へと臨機に復帰することさえも必要である。宿
われわれの幸福は賛否の論拠ではない
多くの人間は、わずかの幸福しか感じる能力がない。 曙光 345 序 思い返せば明確に人生に疑いをかけた瞬間というのがあります。 おそらくそれまでにも細かいものはたくさんあったのでしょうが、一番明確に覚えているのは、高校二年生の時です。 アルバイトを終えて、家に返ってホットコーヒーを飲みました。 その瞬間です。 「うまい」 と、ここまで
思想家の寛容
ルソーとショーペンハウアーは― 二人ともその存在に人生を真理にあわせるという標語を記入するほど誇りが高かった。そしてまた二人とも― 真理を人生にあわせる― 彼らのいずれもが理解していたような真理を― ことが成功しようとしなかった点で、また彼らの人生は、旋律に一致しようとしない気まぐれな低音部のように、彼らの認識とならんで走った点で、ど
高慢ちきな様式
大きくふくらんだ感情を作品の中に注いで安心するのではなく、むしろふくらんだ感情を遠慮なく伝えようとする芸術家は大げさであり、その様式は、高慢ちきな様式である。 曙光 332 何度か触れていますが、人生で式典的なものを行うつもりはありません。そして、そうしたものはすべてどこかしらに高慢ちきな様式という感がしてしまいます。 「おめでとう」

離れて生き、そして信じる
その時代の預言者や奇蹟を行なう者などになるための手段は、今日においてもやはり昔と同様である。すなわち、僅かばかりの知識と若干の思想と極めて多くの自惚れとを抱いて、離れて生きるという事である。 曙光 325 前半 「離れて生き、そして信じる」ということで苦行や神格化についてでも触れていきましょう。 少し距離を起き、実態を悟られないままに
弱い宗派
相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者
もはや望ましくない友人
その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う
陶酔への信仰
信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。 そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚
英雄崇拝とその狂信者
彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナ
感謝する
一グラン感謝の心と感恩が多すぎる。― するとわれわれは悪徳で苦しむようにそれで苦しむ。われわれは自分の自主性と誠実ともどもに、良心の疚しさの手中に陥る。 曙光 293 (※一グラーン(Gran)は、0.06グラム。薬量の単位<注釈より>) 過去記事を見ても、「感謝しなさい! 曙光 5」「感謝を拒絶する 曙光 235」と、またまた同じよ
順位
第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛す
種族の純化
ニーチェは、ナチス的だという偏見がありますが、ナチスがニーチェを利用しただけで、彼は全然ナチス的ではないどころか、それを批判していました。ニーチェの妹がナチスにハマって、ナチスのイデオロギーに利用されただけです。 いまでもナチスと同じようなタイプの人がいますが、「自分が嫌いだと思っている人の状況によって、自分の気分が変動するなら、自分
演説家のスキラとカリブディス
アテナイでは、聴衆を形式によって反撥させたり、形式で本題から逸したりすることなしに、本題のために聴衆を獲得すということは何と困難であったことだろう!そのように書くことは、やはりフランスでも何と困難なことだろう! 曙光 268 曙光内の注釈によると、スキラはカリブディスに面する洞穴に住む海の怪物の女、カリブディスは、スキラと相対した海の
具体的で生き生きとした矛盾
世の中には雰囲気だけで話していたり、人から聞いたことを吟味すること無くさらに人に説き、矛盾したことを話していることに本人が気づいていないという場合がよくあります。 「一見矛盾に見えてしまうが、隙間のニュアンスで読み取って欲しい、そうすれば解釈によっては矛盾しない」というような場合ならばよいのですが、そのようなレベルの話ではありません。
ストア主義的
ストア主義者が、自分で自分の行状に命じた儀式ばった態度のために胸苦しく感じるときに、ストア主義者の快活さが生じる。彼はそのとき、自分を支配者として享楽するのである。 曙光 251 一種の苦行による快楽のような構図です。自制、自戒により自らを知的で本能に支配されていないとの「確信」を得るための一つの指針が、胸苦しく感じる瞬間です。自分で
幸福の目印
あらゆる幸福感の共通点は二様である。感情の充実とその点の自負とであり、それ故にわれわれは魚のように自分の本領を身の回りに感じ、その中で踊る。 曙光 439 前半 何度か触れていますが、「幸福」という言葉が苦手です。その言葉には「良いことがあった」というような、「今までにはなかった」という認定があるからです。すなわち、それまではダメでそ
優美への努力
もし強い性格の人が、残酷への傾向をもたず、いつも自分自身のことにかかわるのでないとすれば、彼は知らず識らずのうちに優美を求めている。― これが彼の目印である。弱い性格の人は、これに反して辛辣な判断を好む。― 彼らは、人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学的に誹謗する者たちの仲間になるか、または厳しい風習や苦しい「職業」の背後に引
党派の悩み
友人との雑談の中にも、内容に少し社会的なことが混じるといきなりギクッとせざるを得ない時を迎えることがあります。それは、当の友人のご両親などに「君、政治に興味ないか」と迫られる時がある、という場合です。 これは一種の宗教勧誘のようなものであり、信者とは言わず党員になれという脅迫の瞬間です。そんな時にはすぐに「無いです」と答えねばなりませ
感謝を拒絶する
われわれはなるほど願い事は拒絶しても差し支えない。しかし感謝は決して拒絶してはならない(あるいは、同じことであるが、感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない)。これは深い侮辱である。― だがなぜなのか? 曙光 235 「感謝は決して拒絶してはならない」 「感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない」これは、相手の行動や意志が自分の意志よ
特権
自分を自分で完全に所有している者、すなわち自分を究極的に征服してしまった者は、自分を罰したり、自分を赦したり、自分を憐れんだりすることを、今後は彼独自の特権であると見なす。 曙光 437 前半抜粋 自分を自分で完全に所有している者と自分を究極的に征服してしまった者という表現はいずれも、まだアイツの内にいることを示します。まず自分という
懐疑の懐疑
「恰幅のよい頭にとって、懐疑は何というよい枕だろう!」― モンテーニュのこの言葉は、パスカルをいつも憤怒させた。というのは、パスカルほどよい枕をとくにそんなに強く熱望したい人はいなかったからである。だが、何が欠けていたか?― 曙光 46 パスカルは、お父さんの税金の計算が楽になるようにと計算機を作ったり、「一人一台ってのじゃなくて、み
「自然音」の礼拝
自然音がリラックスするというのはよくあるケースです。自然界にある音は、耳に入っても特に気に触りません。それどころか自然を感じられて穏やかな気持になってきたりもします。以前少し触れましたが、逆に不自然な機械音はイラッとしてきます。「ピッ」系ですね。 しかしその中間である、自然的な音でありながら、自然界ではほとんどありえない音というものが
消えた懐疑
古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋 「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。 現にあるものに懐疑的というこ
二種類の道徳学者
自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。同じように、人間の法則や習慣を見たり示したりするあの道徳学者たち― 耳や、鼻や、眼などが鋭敏な道徳学者たち― もまた、観察されたものを説明する道徳学者たちからあく