タグ別アーカイブ: 宗教

宗教や思想・主義について

道徳におけるキリスト教的なものの終わり

「憫みによるものでなければ、人は善ではない。したがって、すべてのわれわれの感情の中には、何らかの憫みがなければならない」― 現在道徳はこう思われる!そしてこれはどこに由来するのか?― 同情的な、公平で、公益的で、社会的な行為をする人間が、現在道徳的な人間として感じられていること― これはひょっとするとキリスト教がヨーロッパにもたらした最も一般的な影響であり、心境の変化であろう。 曙光 132 序盤 憫み=「あわれみ」だとは思いますが、またまた難しいのを使いましたね。 さて、「道徳におけるキリスト教的なものの終わり」

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観想

ある思想家にあっては、彼固有の観想的な状態はいつも恐怖の状態に続き、他の思想家にあっては、いつも熱望の状態に続く。 曙光 395 前半 観想、これは今の状態を捉えようとするようなことですが、感情を直視することでその感情の力(?)が弱まってくるということをお知らせしておきます。 恐怖を感じても、恐怖に対抗すること無く恐怖を感じてください。恐怖心の源泉である、思考上の理屈に対して自己説得するような論争自体を止めて、恐怖を感じてしまう方が恐怖が無くなるというパラドクスがあります。 感情が起こり、それを閉じ込めようとすると

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道徳的な流行

道徳的な全体判断は何と変化したことだろう! 曙光 131 序 毎度おなじみ道徳の時間です。 世の中には宗教という形を取らなくても、変化感じの思想とか道徳的教義をもって群れる集団があります。あまり言い返せそうにない道徳によって人を洗脳するという感じです。 まあこうしたものの大半は、来世主義だったり、「もうすぐ宇宙人がやってきて地球を支配するから、今のうちに宇宙人側につくんだ」というようなものであり、結局、自分よりすごい存在がいて、その存在に駄目な自分の人生をなんとかしてもらおうというような教義で溢れています。 以前、

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キリスト教と感動

キリスト教の中から、哲学的に反対する大きな民衆的な抗議をも聞きとることができる。古代の賢人たちの理性は、人間に感動を思い止まらせた。キリスト教は感動を人間に再び与えようとする。 曙光 58 前半 「キリスト教と感動」ということで、またまたニーチェの好きなキリスト教系の話題です。たいていニーチェがキリスト教のことを語る時、イエスのことではなく、パウロ以後宗教化されたキリスト教のことを指していることがほとんどです(最初のキリスト教徒)。 キリスト教徒、特にキリスト教系新興宗教・カルト宗教においては「新約聖書に書いてある

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空想的な理想は何を推測させるか

われわれに欠点がある場合われわれの熱狂は生まれる。 曙光 377 序 特に○○観戦というものに熱狂する場合、それは宗教の礼拝のような構造に近いものがあります。 単純に何かと同化して現実以外の所に意識が持って行かれているのですから宗教にハマった人とそうたいして変わりません。 さて、「空想的な理想は何を推測させるか」というニーチェお得意のアンチ宗教的なタイトルなので、そんな感じで書いていきます。 宗教団体における教義を筆頭に「感情を軸に真理だと勘違いする」ということがよく起こっています。すなわち、感情的な動きを根拠に何

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戦争

現代の大きな戦争は、歴史的な研究の成果である。 曙光 180 「戦争」 こんな思想主義的なテーマのタイトルになるとは、といった感じですが、特別企画なので仕方ありません。 今の現代で戦争といえば、さまざまな歴史的な研究の結果、いろいろな主義ができて、その主義同士のぶつかり合いとして、無駄に戦うということが繰り広げられています。 まあ言ってしまえば、戦争は悪か否か、というようなことすら主義ですので、戦争についての意見自体が戦ってしまうという落語的な結果になっています。 しかし戦争は、その属する社会、個人の集合体をもって

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簡単な異なる表現

先日の実験によるダメージから徐々に気力体力ともに回復してきました。現在、8割位の回復です。 またまた、頭の回復のためにちょろちょろ書いていきます。 最近、少し思うことがあるのですが、たまには平易な表現で書くのもいいかなぁ、ということを考えています。 かと言ってB層に合わせるような「ネタ」を書く気はありません。 あれ面白いですよね。 ネット=基本的に無料、ということで、B層による投票行為がよく行われていますが、100万人のB層が選んだ記事を、その分野の玄人が評価することはほとんどありません。 投票的に評価されただけも

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醜くみえる

適度は自分自身を美しいと思っている。過度なものの眼にとって適度が下品に、平凡に、したがって醜いものにみえるということは、適度の責任ではない。 曙光 361 これは、ウェーイがサラリーマンを見て「ダサい」という時の光景を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。 ある状況にいる人の目線から見れば単に他の状況にいる人が醜くみえるというだけだったりします。 僕も、昔は着飾ることをしていましたが、今では本当に何の意味もないと思っています。 スーツやネクタイですらお下がりです。消耗の激しいシャツだけは買うことにしていま

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友情

久しぶりの「曙光」です。前回の更新から2ヶ月近く経っていますが、再開です。今回から曙光を持ち帰ることにします。 さて、「友情」です。シンプルなタイトルですね。今回は引用は避けておきましょう。 最近、若い事業家仲間のひとりがマルチネットワークにハマり出しました。その話を、他の人から聞いたのですが、その人は彼に会った時にマルチネットワークに勧誘されたそうです。 それに関する投稿「マルチ商法(MLM)と洗脳」を公開しました。 その話を聞いたとき、以前、友人に宗教勧誘された時の感情が再燃しました。 宗教勧誘により失うもの

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「道。」

いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ― そして道を失う。 曙光 55 毎度のことながら「道」という言葉を見るとどうも松下幸之助氏を思い出してしまいそうになりますが、それはさておきましょう。 ただひとつの道 昔からよく「近道を選ぶとえらい目になる」というようなことが色んな所で囁かれます。 しかしながら、それは横着をするなという戒めのようなもので、効率のよいやり方を模索することは、非常に険しくリスクも伴いつつも、人を成長させるも

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われわれの師

若い頃われわれは、師と案内者とを現代の中から選び、われわれがまさしく遭遇する範囲の中から選ぶ。現代は、他のいかなる人たちよりもわれわれに適した師を有するに違いない。あまり探さないでも師は見つかるに違いない、という無思慮な確信をわれわれは抱いている。 曙光 495 前半 「師と弟子たち」などで触れていますが、師というものがいた試しがありません。それぞれの分野における「師匠的な人」はいましたが、たいてい偉ぶっている人たちは師に値するほどの人ではなく、一度会っただけで、その人を超えてしまうことがほとんどでした。 言葉に詰

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崇拝者

いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者は、自らの党派の絞首刑吏のひとりである。― たとえこの者と同じ党派であっても、われわれは彼と握手しないように注意する。 曙光 355 「いたく崇拝するあまり、崇拝しない人を十字架に掛けるような者」 世界中どこにでもこのタイプの人がいます。気に喰わない場合は、晒し者にしたり、時に抹消したりするタイプですね。 何度も触れていますが、そういったことは全てアイツの内にいるからこそ出てくる考えです。 これが宗教の嫌がられる最たるポイントです。 「どうせなら」ということ

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こんな小さな真理!

「真理」という字を見ると胡散臭い印象がしてしまうため、あまり使いませんが、なぜ胡散臭い団体ほど真理という言葉を使うのでしょうか。 やはり、「あなた達の知らない真実」という旨で使うのでしょう。そして私は知っていて、教えてあげるから私を拝みなさいというようなことを思うのでしょう。 残念ですが、彼らの言う真理など「再現可能性のない妄想だ」と言われても、それを覆すことは彼らにはできません。 根本的に大前提となっている事柄がおとぎ話のような仮定であり、その根拠自体も文献が古いとか伝統的だとか、その程度です。 そんな宗教系の胡

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懐疑から救済されて

甲。他の人たちは、不機嫌になり、弱気になり、腐蝕され、むしばまれ、それどころか半ば喰い破られて、一般的な道徳的懐疑を脱する。― 僕はしかし、以前よりも勇敢になり、健康になって、獲得し直された本能で持って脱する。(略) 乙。君は懐疑家たることをまさしくやめたのだ!君は否定するからだ!― 甲。だが同時に僕はもう一度肯定することを学んだのだ! 曙光 477 要約 懐疑を脱するということも二つのパターンに大別されるでしょう。 一つは盲信してしまうということ。一つは錯覚が無くなっていくということ、という方向性です。 前者は、

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賢者の非人間性

すべてのものを粉砕する賢者の重い足どり― 仏教の歌によると、「犀のように孤独に歩む」― には、時々和解的で穏やかな人間性が必要である。しかもあのいっそうすみやかな足どりや、才気あるあの愛想のよい社交的な言い回し方ばかりでなく、機智や一種の自己嘲笑ばかりでなく、矛盾さえも、世に行われている不合理へと臨機に復帰することさえも必要である。宿命のように転がって進む地均らし機(ローラー)に類似しないためには、道を説こうとする賢者は、自分を繕うために自分の欠陥を使用しなければならない。彼は「私を軽蔑せよ!」ということによって―

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われわれの幸福は賛否の論拠ではない

多くの人間は、わずかの幸福しか感じる能力がない。 曙光 345 序 思い返せば明確に人生に疑いをかけた瞬間というのがあります。 おそらくそれまでにも細かいものはたくさんあったのでしょうが、一番明確に覚えているのは、高校二年生の時です。 アルバイトを終えて、家に返ってホットコーヒーを飲みました。 その瞬間です。 「うまい」 と、ここまではただのおっさんのようなつぶやきです。 その「うまい」の瞬間にやって来た虚無感です。 ある種の安堵と幸福感を感じたのですが、この瞬間は一体何なのだろうというような感覚です。普段この時の

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思想家の寛容

ルソーとショーペンハウアーは― 二人ともその存在に人生を真理にあわせるという標語を記入するほど誇りが高かった。そしてまた二人とも― 真理を人生にあわせる― 彼らのいずれもが理解していたような真理を― ことが成功しようとしなかった点で、また彼らの人生は、旋律に一致しようとしない気まぐれな低音部のように、彼らの認識とならんで走った点で、どんなに彼らの誇りに苦しんだことであろう! 曙光 459 前半 「何でもわかりやすく」という流れがやってくると、「そうだカテゴリ分けをしよう」という発想がすぐにやって来ます。 その際は先

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離れて生き、そして信じる

その時代の預言者や奇蹟を行なう者などになるための手段は、今日においてもやはり昔と同様である。すなわち、僅かばかりの知識と若干の思想と極めて多くの自惚れとを抱いて、離れて生きるという事である。 曙光 325 前半 「離れて生き、そして信じる」ということで苦行や神格化についてでも触れていきましょう。 少し距離を起き、実態を悟られないままに、「すごい人」を演じていたほうが、相手は自分を神格化してくれる傾向にある、というのは太古の昔から変わりないようです。 ということで、苦行と神格化です。 苦行がモテる 社会ではなぜか苦行

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弱い宗派

相変わらず弱体であるだろうと感じている宗派は、少数の知識をもった信者を得ようとあせる。そして量の不足を質で補充しようとする。この点が知識階級にとっての少なからぬ危険である。 曙光 316 宗派に限らず何かの思想団体のようなものは、なぜか「仲間を見つけよう」とします。そして数が集まらないならと、強者を集めようとしますが、たまに現れる強者にやられてしまう、ということがたまにあるでしょう。 「優秀な人材を仲間に入れようと思ったらすぐに去られた」とか 「味方にしようと思ったらその強者にボコボコにされ、組織の結束力がボロボロ

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もはや望ましくない友人

その希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む。 曙光 313 最近では「ん―違うな」と思う遊びの誘いは全て断っています。 先日はキックボクシングの観戦に誘われましたが、断りました。養殖のマス釣りも断りました。来賓で参加してくださいと言われたイベントにも参加しませんでした。 忙しいからではありません。なんだか違うと思う所には行かないことにしているからです。 特にそこに行って話すことができるのならば向かいますが、自分を楽しませようとするような遊びで、しかも楽しめないようなものは断っている、というような

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陶酔への信仰

信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。 そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚の内にいるのだ」、と言ってあげてください。 科学と言っても一般に思われている理科や自然科学だけではなく、人文科学や社会科学というものがあります。その時の科学を思い浮かべればすぐにわかる

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英雄崇拝とその狂信者

彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナポレオンこそ、「天才」と「英雄」に対する浪漫主義的な―啓蒙主義の精神から疎遠な―屈従を、われわれの世紀の魂に与えた人であったろう。 曙光 298 後半一部抜粋 「英雄崇拝とその狂信者」

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感謝する

一グラン感謝の心と感恩が多すぎる。― するとわれわれは悪徳で苦しむようにそれで苦しむ。われわれは自分の自主性と誠実ともどもに、良心の疚しさの手中に陥る。 曙光 293 (※一グラーン(Gran)は、0.06グラム。薬量の単位<注釈より>) 過去記事を見ても、「感謝しなさい! 曙光 5」「感謝を拒絶する 曙光 235」と、またまた同じようなタイトルのものが出てきました。 感謝の効用のようなものが近年様々な方面で語られるようになってきました。もちろんしないよりした方がいいですが、闇雲に意味もなく感謝を示すような行為ばか

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順位

第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛すべき地下のものである。 曙光 446 頭が泥沼にはまりこんでいる思想家というものは意外と結構いるものですが、当然に深みのしるしでも、徹底性のしるしでもありません。愛すべき馬鹿野郎であり

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種族の純化

ニーチェは、ナチス的だという偏見がありますが、ナチスがニーチェを利用しただけで、彼は全然ナチス的ではないどころか、それを批判していました。ニーチェの妹がナチスにハマって、ナチスのイデオロギーに利用されただけです。 いまでもナチスと同じようなタイプの人がいますが、「自分が嫌いだと思っている人の状況によって、自分の気分が変動するなら、自分の気分は相手のコントロール下にある。外界の状況の変更という条件が、心の安穏の条件になる」ということを、一度考えてみたほうがいいでしょう。 よく言う「あなたの為を思って言っている」という

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