高慢ちきな様式

大きくふくらんだ感情を作品の中に注いで安心するのではなく、むしろふくらんだ感情を遠慮なく伝えようとする芸術家は大げさであり、その様式は、高慢ちきな様式である。 曙光 332

何度か触れていますが、人生で式典的なものを行うつもりはありません。そして、そうしたものはすべてどこかしらに高慢ちきな様式という感がしてしまいます。

「おめでとう」や「悲しい」すら、もはや「そうか??」と思うほどなのですが、まあ別に喜んだり悲しんだりすることは、即時的に起こるものなので、いいかなぁなどと思います。それが良い悪いというのはナンセンスです。勝手に起こるものですから。

それはさておき、感情の昂ぶりと、儀式などとがどう結びつくのかが、今でもよくわかりません。儀式に限らず、周りにアナウンスしたりアピールすることは、全くと言っていいほど意味が無いでしょう。

冠婚葬祭

葬式や結婚式、つまり冠婚葬祭ですが、どうしてそんなものに躍起になるのか、また膨大なお金を払うのかがよくわかりません。仮に「祝う」としても、「祝い方」を勝手に決められるということは良くないことです。

わからないことは、ひとまず自分はやらないということです。無料でもありませんし、宗教的な観念が潜んでいたりもするのでなおさらです。

冠婚葬祭を行うのは当たり前、というのも違いますし、冠婚葬祭にお金をかけるのは当たり前、というのもさらに違うと思っています。

膨らんだ感情を遠慮無くアピール

さて、「むしろふくらんだ感情を遠慮なく伝えようとする芸術家は大げさであり、その様式は、高慢ちきな様式である」

とニーチェは言いますが、膨らんだ感情を遠慮無く、僕あてにツイートしてくる人もいるくらいです。(なぜかツイッターにされている

そんなに他人にアピールしたいのでしょうか。

膨らんだ感情をアピールするということは、アピールされた側の反応を何かしら幸福論的な面で条件としているということです。

表彰の類

また、よく表彰の類のことが行われたりしますが、勝手に表彰してもらうには結構なものの、「それがどうした」という感想が待っています。

自分ではそのように思っているのに、賞状などを見せられても、また「それがどうした」ということになります。

本当にそれがどうしたというのでしょうか。

その説明を詳しくしてくれる人に会ったことはありません。

そして自分で考えてもやはりわかりませんでした。

表彰する側に渡してしまう力と権威

むしろ賞賛され、表彰されることによって、表彰する側にこそ力と権威があり、表彰される側は所詮表彰する側の手の内なのだという構造すら与えかねません。

賞賛の効果

そのような賞讃よりも、養子のうさぎとの毎日のほうがたくさんの発見があります。

どうせその場限り、一瞬で起こって一瞬で去っていくものなのに、わざわざ一喜一憂するのが変な感じがします。

その場はそれで喜んでおいて、それで終わりです。

それを何度も何度も自慰的に味わおうとする感覚が、たまらなく醜く見えてきます。

また一方で、その場に起こった感情のエネルギーを誰かにぶつけようとしているという酷さが見えます。

高慢ちきな様式 曙光 332

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ