成長しつつある徳
「徳が高い」「功徳がある」というようなことを言語情報として見聞きしても、何の説得力もありません。「あの人は徳が高いことで有名だ」というような情報ですね。それを第三者から聞かされた場合などです。 功徳といったようなものは、そういう一種のプロモーションをしても、実際に会ったりしてしまえば、その人からぷんぷん情報が出ていますから、取り繕うこ
無邪気の危険
無邪気な人間はあらゆる点において犠牲になる。彼らはその無知のために、過度と過度を区別したり、時期を外さずに自分自身に対して用心したりすることができないからである。そこで無邪気な、すなわち無知な若い夫人は、愛情を頻繁に享楽することに慣れ、その夫が病気になったり早く衰えてしまったりする後年には、享楽にひどく不自由するのである。 曙光 32
恐怖と愛
恐怖は愛よりも一層多く、人間に関する一般的な洞察を促進して来た。なぜならば、恐怖は他人がだれであるか、何をすることができるか、何を望むのかを推測しようとするからである。この点を思い違えると、危険で不利益になるであろう。反対に愛は、他人の中にできる限り多くの美しいものを見る、あるいは他人をできるだけ高く向上させるという密かな衝動を抱いて
道徳の空位時代
いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半 理性で判断すると、たいて
ルサンチマン
ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。 ただしル
決闘
ぜひとも必要な時に決闘することが出来るのは利益であると思う。なぜなら私のまわりにはいつでも勇敢な仲間がいるからだ、とだれかが言った。決闘というものは、最後に残された全く栄誉ある自殺への道である。悲しいことには廻り道である。しかも全く確実なものですらない。 曙光 296 実際の肉弾戦でなくても同じことです。決闘は栄誉ある自殺の道、とニー
奉仕の如才なさ
奉仕という偉大な技術の中で、御(ぎょ)しがたい野心家に奉仕することは、もっとも如才ない任務のひとつである。なるほど彼は全体で一番ひどい利己主義者ではあるが、断じてそうは思われたくない(これこそ彼の野心の一部である)。 曙光 295 前半 野心家は、その野心のためならどんな時でもどんなことでも利用しようとします。そんな野心家を支持して同
家畜、愛玩動物、およびその同族
最も兇暴な敵として、はじめから植物や動物の間を荒らし廻り、最後には、衰弱し不具になったその犠牲のために、さらに思いやりさえ要求するような生物の側からの、植物や動物に対する感傷ほど、嫌悪するべきものがあろうか!この種の「自然」に面したとき、人間―もし彼が考える人間であるとすれば―にとっては何よりも真面目がふさわしい。 曙光 286 「家
犬にお世辞
犬は特に好きでも嫌いでもないのですが、犬を飼う人は、犬に対しての態度よって嫌いです。どういう点が嫌かというと、人間側の都合なのに犬側の都合かのようにすり替えて正当化して居直る点です。 本当に犬のことを考えているのか疑問です。人間の思考の産物である主義やマナーなどで勝手に去勢したり、「もっとかわいく」と人間の感情のために、毛にハート型の
教育のために
われわれの流儀の教養や教育の最も一般的な欠陥が、次第に私に分かって来た。だれも学ばない、切望しない、教えない― 孤独に耐えることを。 曙光 443 孤独は耐えるものではなく気づくものです。引用には孤独は苦しいものだという前提があります。孤独でなかった試しはありません。そしてその孤独はただの事実であって、苦しいものという属性は恐怖心から
規則
「規則は私にとっていつも例外よりも興味がある」― こう感じる人は、認識が広く進んでいる人であって、大家に属する。 曙光 442 規則というものは何のためにあるのでしょうか。世の中には意味のわかる規則と、意味のわからない規則、そして、ギムキョ(義務教育の成れの果て)な発想の規則と、タダのわがままの部類に入る規則があります。 「規則を守れ
義務としての偽装
親切ということは、親切に思われようと努める長い間の偽装によって、最も多く発展せしめられてきた。偉大な力が存在したところではどこでも、ほかならぬこの種の偽装の必然性が認められた。 曙光 248 前半 特に偉大な力でなくとも、偉大な力かのように見せる集団での圧力と、そのイメージからの習慣による「疑いも呼び起こさない常識」が、親切に思われよ
力の感情の鋭敏さ
権威にぶらさがったりしている人の取る態度は虚しいモノがあります。権威にぶらさがっていることも醜い態度ですが、権威の目から離れた瞬間に横柄になるという態度が最も冷笑の対象になります。 ある種の力が欲しいと思うことは、弱者であることを認めている、つまり弱者だと自認しているようなものです。 特に経済社会では、極めて力を欲していることがバレて
去就に迷う
去就に迷う。 ー 「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。 世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。 イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探
自主
自主(その最も僅かな服用量では「自由の思想」と呼ばれる)とは、権力を好む者が結局受け入れる諦めの形式である。― 支配することの出来るものを長いこと求めて、自分以外の何ものをも見出さなかった、その彼が。 曙光 242 自主は自主以外の用途で使われることがあります。プライドを保ったまま服従するために、自己説得を行う場合と、「任意という名の
舞台の道徳について
舞台、狭義には演劇を観ることには特にお金をかけたことはありません。 出演者が同級生、という誼で何度か行ったことがありますが、やはり体質的に合いません。悲劇対喜劇という項目で少し引用しましたが、かつて演劇には「感情の解放」という目的があったのでしょう。喜劇なら笑いに、悲劇なら悲しみや恐怖心をぐっと捉えることによって、感情移入による心的エ
罰
不思議なものだ、われわれの罰というものは!それは犯罪者を浄化しない。それは罪滅ぼしにはならない。それどころか、それは犯罪そのもの以上に顔に泥を塗る。 曙光 236 罰則そのものはどちらかというと、事後的な「更生への導き」や「罪滅ぼし」という規定というよりは、最後の一歩、つまり行動のゴーサインを出すことに対しての「予防的、抑止力的な意味
「効用的。」
現在、道徳的な事柄の感覚はきわめて縦横無尽であるので、ある道徳が、この人間に対してはその効用によって示され、あの人間に対してはほかならぬ効用によって反駁される。 曙光 230 効用というものは極めて主観的なものです。主観的でしかありえないものなのに、その「ご意見」を寄せ集めて「客観」とし、様々な説得に使われていきます。まずは効用そのも
誇り
ああ、諸君はみんな、拷問をうけた者が、拷問のあとその秘密を抱いたまま独房に連れ戻されたときの感情を知らない!― 彼は相変わらず歯を食いしばり秘密をしっかりと守っている。諸君は人間の誇りの歓喜について何を知っていようか! 曙光 229 誇りについては以前に「精神に対する誇り」で触れました。この項目でニーチェは、「秘密を抱いたまま独房に
隣人の不幸で「心を高める」こと
彼は不幸である。そこで「同情する人々」がやって来て、彼にその不幸を鮮やかに描いて見せる。― とうとう彼らは満足し、心を高めて立ち去る。彼らは自分自身の驚きと同様に不幸な者の驚き楽しみ、すばらしい午後を過ごしたのである。 曙光 224 「隣人の不幸で心を高めること」とは、俗にいう「メシウマ」というものに該当するでしょうか。繰り返すようで
いかなる道徳が退屈させないか
道徳の時間というのは他の授業とは異なり、変な空気感が出ます。それはやはり道徳というものは人生にストレートに関わることであり、ギムキョの偽善をひしひしと感じる時間であるからです。基本的に何かの教材を使って、自分たちの思想を教え込もうとしますが、やはり多感なティーンにはそれが偽善に映ってしまい、本来の目的からは逆行した結果が生じることがあ
義務と権利の博物学のために
義務と聞くと嫌な響きがしますが、たまに義務を根拠に何かの意見を主張してくる人がいます。体育会系の上下関係など、世間で勝手に義務とされているようなことであり、「そんな義務はどこからきたのか?」ということをまず聞くようにしています。 法律上でも私人間なら権利義務関係は契約という概念がないと原則生じません。つまり双方の意思表示の合致ですね。
逆らうもの
ある組織や主義などと同化し、共通の敵を作ることによってアイデンティティ(自己同一性)を形成しようとしている人がいます。しかしながら、何かの主張を「叫ぶこと」や誰かに対して嫌がらせをすることくらいしかできません。 啓発活動をしても結局は「お知らせ」しかできないから、それしかできていないわけですが、本当に「何かを変える」というのは、彼らの
犠牲の道徳
犠牲に供することに応じて自らを測定する道徳は、未開の段階の道徳である。 曙光 221 一部抜粋 「犠牲の道徳」 このようなタイトルを見たことがある、と思って見直すと「生贄の道徳」でした。しかも曙光215です。 今回はバラバラに書いているため、すぐには気づきませんでしたが、国語の授業なら「一項目にまとめましょう」と先生に添削されるような
決疑論的
どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけない
若干の主張
個人がその幸福を望むかぎり、彼にその幸福への道についての指令を与えてはならぬ。というのは個人的な幸福は、独自の誰も知らない法則から湧き出るからであり、外からの指令によっては、妨げられ阻止されるにすぎない。― いわゆる「道徳的」な指令は、本当は個人と逆の方向であり、個人の幸福は全く望まない。 (略) 意識をもつ存在すべて(動物、人間、
探求者で実験者
学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋 それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会
道徳的な目標の定義に反対
現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか
生贄の道徳
諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うこと
不遜ゆえの悪
無駄に遜ることも、とどのつまりは「慢」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。 不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に