
捨て身と自己愛の矛盾
捨て身と自己愛の矛盾とその先にあるものについて触れていこうと思います。 「思い切り」というものは、その最高地点が玉砕のような捨て身でありつつ、なぜそれを選択しているのかという点で因を観察すると深い部分で自己愛があります。 これは同レベルで照らし合わせると矛盾になりそうなところです。 カルマ、悪業云々を根拠に苦行をするというのは、まさにこうした捨て身と自己愛の矛盾がふんだんに含まれています。 苦行によってどうなりたいのかと言えば自己愛に基
怒りによって見えなくなる「相手の責任の範囲」
稀にですが、それ以上言っても仕方がないのに、それ以上のことを言って、何かしらを求めてくる人がいます。 いわば、それ以上感情に任せて怒りちらしたところで、現実的にどうしようもないのに、現実に即したことは行わずに、「自分の感情を落ち着かせろ」とでも言わんばかりに、やたらと謝罪等を求めてくるというような感じです。 もちろん僕はこの手の人には、意味のない謝罪はしませんし、要求にも応えません。意味がないからです。 責任の範囲と帰責事由 社会生活に
人生で一番良かった時期
若者をつかまえては「人生で一番良かった時期はいつですか?」というような質問を投げかけ、何かしら回答をしようものなら「過去を振り返ってはいけない。『今』と言わなければならない」というようなことを繰り返している体育会系の人がいました。 その脇で一連のやり取りを数回見たことがあるのですが、毎度毎度、「別に『人生で一番良かった時期』というものは、それぞれの時期でそれぞれの良さがあるのではないか?」と思ったりしました(というより質問自体が根本的に
苦悩を縦横無尽に展開
思考がループする時は、基本的には情報不足や意志決定の気力不足が影響していたりします。決めるための情報が不足しているとか、あと一歩の思い切りの力が出ない、というようなものです。 堂々巡りを脱却するため、普通はそうした面でなんとかしようと思ってしまったりします。 また、とりあえず思考が働きだしたら「ストップ」と口に出したりして、思考ループによる気力の浪費を防ぐというような方法が勧められることもあります しかしながら、何かしらの苦悩、苦悩から
カルトの定義
カルト(cult)とは、もともと熱狂的な崇拝を意味し、一種の原理や哲学に基づいた儀式、行動様式などを意味するような言葉になりますが、現代では反社会的な破壊的カルト集団を指す場合に用いられたりします。 カルトの定義としては、次のようなものになります。 精神の安定のために、絶対性を持たない原理に執著し、原理やそれと関連する人物、概念を熱狂的に崇拝すること。ならびにその崇拝対象がもたらす空間、組織。 熱狂的崇拝によって精神の安定を図るため、そ
合意と根拠
インターネットメディアが普及してからというもの、やたらと根拠・データを示せば相手は納得すると言うか、言い返せなくなるというような雰囲気が出てきたりしましたが、「そんなことを根拠にして説得すると不利ですよ」と言いたくなってしまうこともよくあります。 何度も触れていますが、とりわけ相関関係は絶対性を持ちませんし、傾向くらいしかわからないのです。傾向から仮説を立てるくらいにしか使えないというのが本当のところです。 誰かが「因果関係を知らなくて
合意と具象
相手の合意を必要とする場合、抽象的なことであっても具象化せざるを得ないという場合があります。 様々なことをわかりやすく伝えたいというのはやまやまですが、そんなふうにどうしても相手の合意というものが要るとなれば、本質とは少しズレたところで示さざるを得なくなります。 しかしながら、抽象的なまま語られると譫言のようにしか感じざるを得ない場合もあります。正しいのですが、時にカルト的になってしまうというような感じです。 相手の納得を得るということ

偏見を解く過程としての混乱
「混乱」というと「なるべく避けたいもの」として取り扱われますが、見方によっては偏見を解くための過程としてのプロセスであるという場合もあります。 何かに抵抗する時、そこに執著があります。手放したくない思い、考え方、自己都合等々が含まれています。それはそれで一つの側面として、ひとつの選択の可能性としてそのままでも良いのですが、「絶対視するほどのものかどうか?」というところについては怪しくなってきます。 そこに気づいた時、混乱が起こります。そ

占い師によるいきなりの脅し
固定電話に電話がかかってきて、いきなり「この方はまだ生きていますか?」などと言われたらどんな気分になるでしょうか。 ということで、「占い師によるいきなりの脅し」について触れていきます。 占い師というような商売をしている事自体が絶望的なのですが、こうした人のうち、うまくいっている人ほど「脅しが上手い」ということになっています。 占い師は脅しが上手いという点についてですが、その要因としては、元々大ホラ吹きで、誇張したことを言ったりして人の関
相手の意識の乱れに少し振り回される疲弊
融通が利かないか、もしくは「さっき言っていたことと違いますが」とか「何度言ったらわかるのでしょうか」と思ってしまうような感じかのいずれかに出くわすことが多くなりました。 混乱といういうよりも意識の乱れ、精神の乱れの中、決まりきった方法論に固執するか、もしくはそのまま混乱を続けるかというような感じになっているような気がします。 狂人ばかりの中にいるとまともな精神を持つ者の側が狂人であるとみなされるように、狂っているのは自分の方なのかと思い
「雑」の極みとしての発想
世の中には驚くほど雑な人がいます。近年では「失言」として取り扱われたりして後で撤回ということもよく起こっていますが、根本的にそうした失言は「うっかりしてたなぁ」といったものでもなんでもなく、本心から出た言葉であるというのが本当のところとなっています。 相手や社会のことはお構いなしで、自分の感情に正直、そして、偏見に満ちており、思ったことをすぐに口にするといったような感じで「雑」を極めていたりします。そして自分に都合の悪いことには耳を貸さ
「無知の知」による迷宮からの脱出
一度哲学的領域に入ってしまうと、ソクラテス的な迷宮に入り込んでしまうことがあります。それは「無知の知」のような一種の納得せざるを得ないようなものを通過すると、社会生活等々がままならなくなってしまうというような現象です。無知の知そのものは、それはそれで概念としての空性であり、ある種の理として「それそのもの」という感じになりますが、そうした正しさがあると、混乱から迷宮に突入してしまうことがあります。 これは端的には、「定義できないのだから何
ゼロの錯覚
求めても得られない苦しみである求不得苦には様々な要因がありますが、「ゼロの錯覚」こそが求不得苦をもたらす最たるものであり、無駄な苦しみを生む要因の一つとなっています。大切なものとの別れからくる苦しみである愛別離苦についても同様です。 「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であるものの、この心にとっては求不得苦や愛別離苦をもたらす要因でもあります。 不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。 「ゼロ」という概念は数学的空間の中にだけあ
但し書きがつくような新しい分類
学者は、自然を殺し解体して理解しようとし、天才は、自然を新しい生きいきとした自然によって増大しようとする。 (反時代的考察 Ⅲ 6) そんなことをニーチェはよく言っていたような気がします。 また有名なものとしては次のようなものもあります。 私はすべての体系家を信用せず、彼らを避ける。体系への意志は正直の欠如である。 (偶像の黄昏 箴言と矢 26) 共に原佑氏訳 一般的な概念かのように知れ渡ってしまう概念たち 近年、キーワード中心の注目の
心とは何か
「心とは何か?」ということについて様々な議論があります。しかしながら、あまりに定義し難い対象であるため、どのレベルで定義するかによって、いかようにも定義できてしまうのが心です。 「心とは一体何なのか?」 その答えを示すのであれば、端的には次のような定義を示すことができます。 「受け取る働き」 「認識する機能」 「受け取る点」 そしてその上で、なぜそのように心とは何かという問いに対するひとつの捉え方をするのか、そして、そうした場合、何が見
情報化社会における「情報の遮断」と「視点の教育」
情報化社会などと言われて久しいですが、例えば未成年の精神の発達において教育上重要なのは、情報の遮断ではなく視点の教育であると思っています。 これは、ルソーがエミールで説く「『徳や真理を教えること』ではなく『心を悪徳から、精神を誤謬から守ること』」の重要性に近いような感じです。 昔から「教育に悪い」ということで番組やマンガにクレームがついたりします。しかし、重要なのは、見せないということではなく、どう解釈するか、その視点をたくさん与えるこ
音の形状と分子構造
音には形があり、形をしっかり捉えられると楽曲はキレイにまとまります。 また形状や構造を捉えると「どうもフィーリングが合わないな」という共同演奏者同士の息の面も整ってきます。 昔指揮を担当していた時に次のようなことがありました。 四分の三拍子となっている8小節がどうも合わないということなので、息を合わせるためにどのように説明すべきかということを考えました。 その箇所は、スコア上の表記は3/4ですが、音符的な並びは6/8であり、かつ、小節ご
ねがふは明かに答え給へかし
高校生くらいの時のことですが、何かのアニメの脇役のおじいさんが「答える義務はない」というセリフを言っていたのを観てからというもの「そうかぁ。答える義務はないのかぁ」と、ひとつの返答の形を学習してしまいました。 まあ義務と言っても究極的には何かしらの権利が欲しければ的な仮言命法的なものにしかすぎないので、権限の維持や相手からの好意等々を含めそうした対となる対象を欲しなければ何事に対しても義務というものはないという感じになっています。 そう
問ひわきまふる心愚かならず
質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちら
見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ
令和という時代になってからというもの、「ギムキョな感じ」がどんどんしてきました。義務教育の成れの果てとしか表現できないような、人を制限すること、人に負担させることしかできず、創造性に欠けているような方法論が蔓延しています。 まあ大体はみんなで目標を達成しよう系のものが出てきた時は、何かしら反発がありそうな取り決めの前フリだと思っておくほうが賢明です。 「こうですよね?あなたもそう思いますよね?じゃあこうしましょう」 という交渉の仕方です
思ひがけずも師を労はしむるは
細かいところまで考えれば「意図せずとも不測の事態が起こる可能性はどこかしらにある」という理からは免れることができません。 どれだけ対策し、予防していたとしても、やはりたくさんの要素において不確定要素があるため不測の事態が起こりうるという感じになっています。 完璧や成功というものは何かしらの基準に基づく判断であり、基準のあり方によって「完璧である」とか「成功した」という感想が異なってきます。 というような構造がある中 「うっかりしてたなあ
ここち惑ひ侍りぬ
成長してしまったゆえに、ということなのか、以前は人と接していて戸惑いが起こることがよくありました。否、戸惑いとはまた違うのかもしれませんが、今でも違和感を感じてしまう時がたまにあります。 なぜ昔はこのタイプの人とも普通に話せていたのに、今ではうまく話せないのだろう、というような感じです。 二十代前半頃までは普通に話ができたりしたのに、今では普通に話をすることができないという場合があります。 それはきっと物事をどう捉えればよいかということ
人の痛楚む声いともあはれに聞えければ
弱っているものを助けよう、弱きものを守ろうとするのは、一般感覚として普段からあるような感覚ですが、時にこうした構造を利用して「弱っているふりをすれば何かしら相手に負担をさせることができる」という感じで自己都合を叶えようとする人もいるので困りものです。 「そうしたものには騙されまい」とすべてを遮断するというのも歪んだ極端であり、また、逆に全てにおいて手をかけようとするのも歪んだ極端です。 困っているフリをすることを含め「駄々をこねれば自分
嫌な人との向き合い方
生きていると嫌な人と出会ってしまう機会がたまにあります。「趣味が合わない」という程度ならばいいですが、「脳が焼け焦げているのではないか?」と思うほどに多少気が狂れているような人や、周りが見えず自分の快楽だけを追求する傍迷惑な人、アラ探しや侮蔑等々により事あるごとに気力を奪おうする人など、多種多様な人と出くわしてしまう可能性は常にあります。 これらは怨憎会苦という「思い通りにならない苦しみ」です。そうなると怨憎会苦から逃れようと「何でも受
信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
「信念の書き換え」とそれら信念における「未来についての不完全な論理構造」について触れていきましょう。 「信念」というものは書き換えが可能だったりもします。洗脳、マインドコントロールによって行われていることは、いわば信念の書き換えであり、外界の現象を捉えて反応する関数部分に対する「方程式の書き換え」という感じになっています。 ただ、書き換え可能なものと書き換えが不可能なものがあります。しかし大半は書き換えが可能です。これは、普遍的な「理」
「空」でありながら実在するかのように働く機能
それが実在するものでなくとも、実在するかのように働くことが迷妄の要因の一つとなっています。 本来は「有るような、でも、無いようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらしたりします。 あくまで五蘊により捉えたものとしての対象であり、本質的には有と無を統合した概念である「空」としての性質を持つものであっても、観念の領域では有としての前提が生じるために機能が生まれ、機
凛として淡々とした平常心
まあ社会的な騒ぎで微妙に狼狽えてしまっている人も多いと思いますが、僕はいつも通りの平常心のままだったりします。 本当に必要なニュースは嫌でも誰かが伝えてくれたりもしますし、社会的な不安ベースの情報は「見ても仕方がない」ということを十代の時に思ったので、特にニュースも見ていません(自宅にはテレビ自体もないですからね)。 どのような社会問題も、今一度普通に冷静に考えてみると「あまり関係がない」ということを思ったりはしないでしょうか。 「当事
勘違いの証明
中学1年生くらいの頃の話になりますが、部活動で壁打ちのようなものをしていて、飛んでいったボールを見つめていた時のことです。 単に放物線を描くボールを見ていただけなのですが、急にひとつ上の学年の人がこちらに近寄ってきて 「おい、お前睨んでたやろ」 と言ってきました。 (あんた誰?) くらいの感じでしたし、その時初めてその人が同じ学校にいるということを知ったくらいのレベルだったので、当然に喧嘩を売るべく睨んでいたわけでも何でもありません。

データ利用による専門性や信頼性、権威性の評価の危険性
データ利用による専門性や信頼性、権威性の評価の危険性について少しだけ触れていきます。 最近、コロナウイルスに関連したデマがよく広がっていると見聞きしますが、内容を聞くと爆笑レベルであり、感情によって理性が抑制され、妄想が広がるととんでもないような暴論に行き着くということがよくよく示されているような気がします。 そんな爆笑レベルに反応する人も民主主義の中では一人一票で、さらに騒いで声が大きい人の声は一票以上の効果を持つということがいかに危

前提知識が無い可能性を推測できない人たち
単発的な情報の処理に慣れすぎているということから来ているのか、共感性が乏しいと言えばよいのか、物事を俯瞰する能力に欠けていると言えば良いのか、近年では言葉が通じなかったり、ふとしたことから意味不明な説明をされる場合が増えてきたりもしました。 以前「野放図への白眼視」で触れていた「…ということのようですが…そういったお話はどちらに伝えればいいですか?」「下!」というようなやり取りのように、それで相手がわかるわけがないということが推測できな