タグ別アーカイブ: 心理

心理・意識・精神について

人間と物

なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438 パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。 芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなこと

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恐れられる眼

威嚇された時よりも、こちらがギクッとする時の「こちらを見ているの眼」の方が恐ろしく感じる時があります。 それはまさに電車の中で英書を読んでいる人が、その真意を悟られた時です(電車で隣に掛けた客の本)。 世の中には、恐れられているものがたくさんありますが、その相手が「強いかどうか」より、「本気かどうか」の方が重要な事は言うまでもありませ

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言葉がわれわれの妨害になる

言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使

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狂信が望まれる場合

粘液質の人々は、狂信されてわずかに感激するだけである。 曙光 222 狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。 狂信といえば代表的なものは変なカルト宗教ですが、気が狂れているとしか思えないほど熱烈な信仰というものは、愛社精神や政治思想への信奉、アイドルへの陶酔といったものまで

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優越への努力

優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。 優越に対する批判に対して「それは僻みである」という批判を繰り返すというような感じですが、そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が

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威厳と恐怖心

儀式、職務と地位上の服装、真面目な顔つき、厳かな眼つき、ゆったりした足どり、曲がりくねった話しぶり、威厳とよばれるもののすべて、これは実際のところ恐怖心をもつ人々の偽装形式である。― 彼らはそれによって(自分を、あるいは彼らが代表するものを)恐怖を与えるものにしようとする。恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしい

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気づかれないままでは破壊しない

そもそもは認識の誤謬、錯覚というものから起こる悲劇ばかりですが、単純に日常のモヤモヤというものは、奥深くに眠っている「何か」が引っかかっていることがほとんどです。怒りの本音で触れましたね。錯覚がなくなればすべてがガラッと変わり、一気に消えますが、それは少しハードルが高いのかも知れません。 トラウマはそれが何かがわからないからトラウマと

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自制と節制とその究極の動機

衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 (略) 機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109 抜粋 ニーチェには残念です。衝動を解消するの

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お世辞屋の風土

卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。

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理解者

久しぶりにこのカテゴリテーマについて触れることにします。カウンセラーについて、そして「理解者」について触れていきます。 うつに関しては、理解者が必要であるというようなことが言われたりしますが、その役割として世のカウンセラーというものはきちんと機能しているのかどうかが疑わしい部分があります。 僕にとっての理解者であったおばあさん、カウン

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「自然音」の礼拝

自然音がリラックスするというのはよくあるケースです。自然界にある音は、耳に入っても特に気に触りません。それどころか自然を感じられて穏やかな気持になってきたりもします。以前少し触れましたが、逆に不自然な機械音はイラッとしてきます。「ピッ」系ですね。 しかしその中間である、自然的な音でありながら、自然界ではほとんどありえない音というものが

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生贄の道徳

諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うこと

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不遜ゆえの悪

無駄に遜ることも、とどのつまりは「慢」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。 不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に

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ドグラ・マグラ

本は今までにたくさん読みましたが、特に興味もわかなかったというのが本音です。しかしながら、「ドグラ・マグラについてはどう思われますか」というご質問を受けたのでついでに読んでみた次第です。 ということで、先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。 「ドグラ・マグラ」夢野久作 文自体はそこそこ長

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新しい情熱

われわれの持つ認識への衝動があまりに強いために、われわれはまだ認識ぬきの幸福を、あるいは、強い確固とした妄想の持っている幸福を評価することができないのである。 曙光 429 一部抜粋 ニーチェには残念ですが「妄想の持っている云々」は余計でしたね。彼はアンチクリストへの衝動が強すぎて、それを糾弾することに意識が向いていました。キリスト教

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われわれ追放された神々

人類は、その由来や、その独自性や、その使命などに関する誤謬によって、さらにこれらの誤謬に基づいてなされた要求によって、意気が高く昂まり、再三再四「自分の腕前以上のことをして」きた。しかし同じ誤謬によって、名状しがたいほど多くの苦しみが、お互いの間の迫害が、中傷が、誤解が、また個人の内面や個人自体でのさらに多くの悲惨などが生まれた。人間

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誰のために真理は存在するか

今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋 ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。誰かのために用意

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宣誓のひな型

「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠

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ここで新しい理想がつくられる

恋愛状態のとき、自己の人生の決断を下したり、激しい気まぐれのために自己の伴侶の性格を断然決定してしまったりすることは、許されるべきことではない。われわれは、愛人同志の誓いを公に無効であると宣言し、彼らに結婚を許さないようにするべきであろう。 曙光 151 前半抜粋 性格も傾向はある程度固定的なものであっても、表に現れる行動などは一様で

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どこで自分を知るか

動物は他の動物を見るや否や、心の中でそれと優劣を争う。そして未開時代の人間も同じやり口である。ここから、どんな人間でもその場合、ほとんどその防御力と攻撃力に関してのみ自分を知るということが明らかになる。 曙光 212 時に防御力、攻撃力という言葉を使うからこそ「言ってることが少年ジャンプっぽい」と有吉氏に言われるんだぞニーチェ! つま

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それ「自体」

昔人々は、おかしなものが性質として付着している物がわれわれの外部に存在するかのように、おかしなものとは何であるか?と問うた。 ― 現在人々は、笑いとは何であるか?笑いはどうして起こるのか?と問う。人々は考えたあげく、よいものそれ自体、美しいものそれ自体、崇高なものそれ自体、悪いものそれ自体は存在しないが、われわれが自分の外部や内部の物

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大きな沈黙の中で

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインです。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わることで有名です。 論じえぬことに対してあれこれ論じて盛り上がるのは雑談程度で十分のはずなのですが、世の中では論じ得ないこと、論じても仕方ないこと

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最も古い道徳的な判断

われわれの身近で或る人間が行為をした場合、われわれは、実際どのようにするか?さしあたりわれわれは、われわれにとってその行為がどんな結果になるのかを注目する。― われわれはこの視点下においてのみその行為を見る。 曙光 102 序 本当は違うはずですが、人は外見や行為で人に判断されます。 真の意味での行為について判断されるのであればいいの

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夢からさめて

生きているということは、明晰夢のようなおぼろげなものです。何度か書きましたが、僕は夢という言葉が苦手です。 イニシャルDの最終話で「プロジェクトDのイニシャル、Dreamに込めた俺の夢だから」と、高橋涼介が言った時には彼の評価が2段階位落ちました。 「高橋涼介が一番だ」、ということで頭文字DのゲームでもFC(RX-7)を使っていました

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道徳的になるのは、道徳的であるからではない!

道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でも、ありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。 曙光 97 つまりは校則に書いてあるからとか、上司にそう聞いたからという理由で「道徳」を守っているかのようなギムキョな言動は、道徳

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観想的な生活の由来

ふっと思うことを「観る」というか観察することはいいですが、一歩間違えればそこに何かを結びつけようとします。 そういう癖は太古の昔であれば原始的宗教と言われるもののように、自分たちが把握できない対象についての畏怖から想起されたと思いますが、現代では、ありふれた情報によって「つじつまを合わせよう」とするアイツ働きによってそれは完成されます

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底意ある馬鹿げた畏敬

上下関係についてはさんざん書いてきましたが、すこし違ったアプローチをということで、「だからどうした」について触れていきましょう。 昔々の営業先で、はたまた社内で、「自分の旦那はこんなにすごい」とか「うちの会社はこんなにすごい」というような事を話題にしたがる人がいました。 そんな時には、事実というより現在の状態について何か誇らしげに主張

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感情とその判断からの由来

「君の感情を信頼せよ!」― しかし感情は最後のものでも最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。 曙光35 感情は今の状態の一つの指針で、「その場」に限って言えばそれが全てみたいなものですが、それはすぐに流れていきます。 たまたま訪れた感情にも、その原因があります

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原因や結果や現実の軽蔑

結局現実的なものは、それが象徴でありうるかぎりにおいてのみ、まだ価値があるのだと考える。こうして人間は風習の倫理に威圧されて、第一に原因、第二に結果、第三に現実を軽蔑し、すべての彼の高級な感覚(畏敬や、崇高や、誇りや、感謝や、愛の感覚)を、想像された世界、いわゆる高級な世界と紡ぎあわせる。そしてやはり今日でもわれわれは、人間の感情が昂

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輪止め

道徳的に苦しみ、その上この種の苦しみの根底には誤謬があると聞くこと、これは癪にさわることである。 ― 道徳の新しい理解を阻止するものは、誇りであり、誇りを満足させる習慣的なやり方である。 曙光 32 省略しましたが、ニーチェは曙光のこの箇所(曙光32)で苦行ジャンキーについて触れています。 苦行を筆頭に、「苦しめばカルマが消える」「体

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