思考を整えることと自然体になること
特にうつ状態の時に限ったことではなく、いつでも思考は静まり整っていることが理想的です。 感情は即時的でそれ自体が現在の答えのような性質を持っていますが、当然のものではありながら結局は何かの反応にしか過ぎません。 生理的な恐怖のようなものなら、いわば「身体の都合」ということにもなりますが、思考上で起こる恐怖や不安など、所詮思考上で起こっている実体のない虚像ということになります。 しかしながら虚像と同化しているような状態にあっては、反応にしか過ぎないものの「今の事実」には変わりないため、しんどくなったりしてしまいます。
運営元の都合
インターネットを取り巻く環境は日進月歩で変化しており、数年単位で「運営元の都合」により、今までの全てが無に帰する場合もあれば、「忘れたいのに忘れられない」ということが起こったりします。 そういえば来年でGoogle+が廃止されるようです。今までに上げられた投稿の取扱がどうなるのかは知りませんが、もし完全に消えてしまうのなら、そこでの投稿、やり取りされた全てが無に帰するという感じになります。 SNS系に限らずですが、新しく生まれていったネット上のサービスは、それまでにあった「やり取りや記録のあり方」の代替手段となって
専門分野への沈黙の強要
小学生の時からずっと抱えている違和感にはなりますが、専門分野、特に芸術分野などでは「素人は語るな」とか「素人は手を出すな」的な雰囲気があります。専門分野への沈黙の強要といった感じです。 いくら文化といえど所詮遊びの延長であるはずの美術や音楽の分野において大学などができていったせいで、「しっかりと学んだものしか世に出してはいけない」というような雰囲気があります。 別に誰でも絵を描くことを楽しみ、楽器で遊ぶということをしてもいいはずですし、自由に語ってもよいはずですが、どうもそれが許されないような空気感が出ています。
感情と目の色の変化
目の日なので、感情と目の色の変化についてでも触れてみましょう。 以前、父が激昂した時、目の色が変化したことがありました(僕に対して激昂したわけではありませんが)。 普段は黒い瞳の色が白気味の茶色になったという感じです。そしてあまりに激昂していたので、なだめて横になってもらい、目に手を当ててしばらくすると気持ちも落ち着き、同時に瞳も黒に戻りました。 もちろん僕の目で見た感じの瞳の色だったので、物理的にはどうなのかははっきり知りませんが、感情によって明らかに黒から白茶、そしてまた黒へと目の色が変化しました。 まあ体温や
耐え難き極寒
寒さというものは辛いものですが、当然ながら寒さという感覚は情報空間にも広がっています。 その寒さの最たるものは、せっかくの演出を台無しにするというようなものです。 そういえばかなり前に「サプライズ」というような言葉について触れた時がありました。そんな事は感情を高めるための粋なテクニックとして何千年も昔から利用されているようなことであるはずですが、あえてラベリングしてしまうことで、せっかくの演出効果が激減してしまうというような事になっています。 先程マーケットインについても触れてみましたが、「プレゼントは何がいいか?
魅力と期待・信用と相対基準
すごく単純なことなのですが、魅力は相対基準で決まります。あくまでそれを魅力だと判断する人の観念に沿って、魅力が魅力であると判断されるという感じです。もちろん本能レベルでの快・不快や「ちょうどいい」という基準もありますが、それらが複合されて魅力というものは判断されるということになります。 その魅力には、奥に期待や信用というものもあります。例えば、僕は遊び盛りの十代の女の子には魅力を感じさせることは難しいのではないでしょうか。 なぜなら、遊び盛りの十代の男の子たちと比較して、彼女たちを「楽しませる」という部分での期待を
偏りに対する矯正の提案の一般化
プロダクトアウトに対するマーケットインや、減塩・炭水化物制限などなど、この世の中にはたくさんの提案がありますが、まずこれらは「ある偏りに対する矯正の提案」であることを捉えておくほうが賢明です。 ところが世の中では、何か必殺技があるかのように一つの方法論を一般化する傾向にあります。そしてそれはまた次の極端を呼び、物事をおかしくしていってしまうという感じになっています。 その全体像を把握することなく、自己都合等々に歪んだ認知のあり方のまま、一つのキーワード、フレーズ、「極端にモデル化された簡単な公式」だけを捉え、歪みの
情報の整理と情報源
少し前からチョロチョロとブログ内を編集したりしています。まあ鋳直しというか情報の整理という感じになるでしょう。 文字として書き起こす手前にはまとまりとエネルギーがあり、それが言語として具体化されているということになっていますが、それが具体的情報として形なって、さらに配列されていくになると一種の僕の頭の中と同じような構造になってきます。 言語化される時にフィルターは通される形になりますが、概念が具体的な記述として形になり、それらが関連性を持って配置されていくので、まさに頭の中に近いような形になります。 情報源の浅さか
倫理と道徳が陥る罠
倫理と道徳が陥る罠ということで、倫理と道徳について触れていきます。徹底的に書いてもいいのですが、深く触れていったところであまり意味を成さないためふんわり書いていきます。 倫理とは、人が生きる上で、理と関係性の中での基準となる行動基準、いわば秩序としての行為の基準という感じです。単純には「人はどうあるべきか」というようなものということになるでしょう。また、道徳とは、結局ある「道」に関して、つまりある基準の上で「それがよし」とされているような指針という感じで、もう少しふわっとした概念です。倫理と道徳の違いとして、倫理は
入力の品質と食事
食べ物の美味しさを最大限に味わおうとするならば、素材や調理法を含めて料理そのもの出来ばかりに着目するのではなく、食べる側の感受性にも着目する必要があります。 受け取り手の集中力が低く、今現在の感受性が低下している状態では、五感の全てにおいて受け取る情報が低下するので、本来の情報よりもかなり低いレベルでしか物事を味わえなかったりもします。 そうしたことを「近代人の養育」で触れていましたが、今回は「入力の品質と感受性」という感じで書いてみようと思います。 それは、音であれば「聴こえる音の周波数の幅」といったような、基礎
「真理」と「真理とは呼べないもの」
「真理」と「真理とは呼べないもの」について触れていきます。 もちろん「あなた達の言う真理が正しい真理ではなく、私の説が正しい真理だ」というような感じではありません。 真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。誰がどう考えたところで揺らぐことのない「理(ことわり)」を意味します。法則というふうに考えても良いでしょう。 真理の定義として、論理的な法則に適合していることや命題が事実と適合していることという感じで考えても良いですが、さらにもう少し突っ込ん
合理化によって失われた分を何かで補う
合理化が進んだ分だけ何かが失われて、その失われた分は何かで補わなければバランスがおかしくなるということで、結局かけているコストの総量としてはあまり変化がないような気がしたりもします。 ということで、便利になってできた余白は何かに使わねばなりません。でないとただ愚化していくだけになってしまいます。 「求める結果を最短最小のエネルギーで手に入れる」という合理化自体は良いですが、ある部分を合理化することで、ある部分の能力が低下し退化していったり、また、別の側面で非合理となるという問題もどこかに潜んでいたりします。 省エネ
哲学と未成年の感覚
哲学の領域は、哲学を勉強することで完結するものではありません。柔軟な感覚で自ら紐解き、自ら超える領域であるのが哲学領域です。誰かが考えたことをを理解するということも、自らの検討材料として良いきっかけとなりますが、知り、理解することが哲学ではないのです。 そう考えると、最も重要なのは「未成年の感覚」です。哲学に限らず全ての科学は「何でなんだろう?」と問うこと無しには先に進みません。 ということは、半ば強制的に教え込まれることよりも、「あのとき彼はなぜそんなことを言ったのだろう?」と疑問に思うことの方がよほど科学的な姿
Ludwig van Beethovenがくれる勇気
僕が最も好きな音楽家の一人として、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)がいます。 不器用ながら器用、そして器用ながら不器用で、絹のような旋律よりもデニム生地のような、それでいてしっかりとなめらかな「縦にバンバンバン」とやる感じが、玉サブローのようで好きです。 最近、ベートーヴェンの楽曲と合わせて、手塚治虫氏の「ルードウィヒ・B」に出てきた「一つのモチーフをどこまで展開できるか」というような感じのことに背中を押されたような気分がしています。 思えばベートーヴェンには何度も背中を押されたような経験
アクセスが増えるとスクレイピング対象となる
アクセス数が増えてくると色々な問題が出てきたりします。 まあ意図的な文の大半をコピーするようなことは本当に稀にしか起こっていませんが、機械的なスクレイピング対象となったりしているようです(スクレイピングについては後述)。悪質な著作権侵害とまではいかないのかもしれませんが、何だかそんなことをする輩の悪しき心を成敗してやったほうがいいと思うのでちらほらスパム通報などをしています。 というような感じなので覚書です。 数ヶ月前は、コメントスパムによってサーバー負荷が高まり表示速度が遅くなったりしていました(鬱陶しいコメント
動機の奥底が見えればそれを憐れに思う
意識的に行ったことでも無意識的に行ったことでも、その奥底には動機や意図があり、その動機の奥底が見えればそれを憐れに思うようなことがよくあります。 基本的に行動には動機があります。突発的な出来事への反射というものもありますが、原則的に、まず心というか意識・無意識を含めた精神がそれを意図しない限り、行動というものは生まれません。そしてその動機や意図と呼ばれるものは、本人の口から表面的に他人へと説明されるそれとは異なったものとなっていることがよくあります。 その理由は簡単で、本当の動機や意図が知られると恥ずかしいとか、そ
腹痛の治し方や急な激痛の和らげ方
腹痛の治し方や急な腹の激痛の和らげ方について触れていこうと思います。 人生で最大の苦痛、最悪な瞬間は確実に腹痛の時だと思っています。 ところが、インターネットで腹痛の治し方などを調べようと思っても、下痢とは、便秘とは、過敏性大腸症候群とは、といった解説ばかりだったりもします。 「ストレスにも気をつけましょう」 「ふざけるな!こっちはそれどころじゃないんだ!」 というのが本音ではないでしょうか? ということで前振りはいいので、急激な激痛の和らげ方などについて書いていきます。雑談は後にします。 食中毒と疑われる場合でな
テレビを見ない生活
もうかれこれテレビを見ない生活が十数年続いています。家にはもちろんテレビ自体がありませんし、今後も買うことはありません。ということで、自宅でテレビを見るというようなことは一生ないでしょう。 今年の台風で家のテレビのアンテナが吹き飛んでテレビがない生活ということを経験した人も結構いると聞きました。そしてアンテナを直そうにも、復旧工事が殺到していてなかなか順番が回ってこないという感じのようです。そしてさらに、まさにテレビ依存ということなのか、テレビのない生活に耐えられないということで、ひかりTVやケーブルTVを契約する
笑いの効果
人の行動の中には即時的で直接的な効果のあるものと、思考上でぐるぐる回ってからでないと効果がないようなものがあります。 睡眠や食事や排泄などは即時的で直接的な効果があります。一方、「試験に合格した」とか「面接が終わった」とか「やっとパートナーが見つかった」いうようなものは、体が直接喜ぶというようなことではなく、短い時間ながらもなんだかんだで思考が巡り巡ってから喜ぶという感じになっています。 ただ、笑いに関しては「こらえることができないほどの爆笑」をもたらされた瞬間は即時的で直接的な喜びがあります。もちろんそれによる健
生命保険等金融商品の不適正募集の背景や手口
今なおたまに生命保険をはじめとした金融商品の不適正募集が問題になることがあります。高齢者を狙った詐欺的な営業方法をはじめ、様々な抜け穴や解釈をもって強引に契約を結ばせようとする問題です。 こうした不適正募集、特に高齢者を狙った不正契約・不適切な営業活動は昔からちらほらありますが、その手口は押し売り等々一般に想像されるような形以外にもたくさんのパターンがあります。業法違反という意味での違法というレベルを超えて、犯罪の領域ですらあります。 現行の法制度などが関係しているのか、詐欺的営業にもかかわらず、不適正募集が発覚し
不安感を解消する極めて簡単な第一歩
不安感を解消する極めて簡単な第一歩ということで、今回は最もシンプルでわかりやすく気楽な感じでお送りしていきます。まずは当座の「不安や不安感をなんとかしたい」という人向けに不安感を解消する方法をご紹介します。 いつもは「適当なことを言うな」という感じで過ごしていた病中当時の僕に合わせるような形で、当時の僕のような人向けにとことん書いていたりするため、うつテーマながらやや難解だったりすると思いますが、今回は極めて簡単な内容になります。 それでは、まず面白い人のご紹介から進めていきましょう。 「関係ない」で凄まじく出世し
自己犠牲の精神からの脱却
自己犠牲の精神からの脱却ということで「自己犠牲」について触れていきます。まず最初に自己犠牲は美徳でもなければ称賛されることでも何でもありません。そして「責任感」というようなものに翻弄されたりする必要もありません。 強迫観念のような自己犠牲を自分でも治したい、自己犠牲の状況にあるのは嫌だと思っていながら、いつまでも自己犠牲を受け入れてしまうという場合も当然ながらよくあります。 「頭ではわかっていても抜け出せない」という状況です。 あくまで文章による伝達なので全てのケースに対応できるかどうかはわかりませんが、可能な限り
今なお印象的な悲劇
先日、シェイクスピアの「マクベス」を読んでいたら、ふとLIVE A LIVE(ライブ・ア・ライブ)の中世編を思い出しました。 マクベスはハムレット、オセロー、リア王と並ぶシェイクスピア四大悲劇のうちの一つですが、それに触発されてか、しばらくの間「人生で最も最初に明確に印象付いた悲劇」である「LIVE A LIVE 中世編」のイメージが頭から離れませんでした。 LIVE A LIVEは、1994年頃のゲームなので僕はまだ小学生でした。 「えー…ストーリーの終わり方でこんな終わり方もあるのかぁ」と幼心にショックでした。
親友からの宗教勧誘とアンチ宗教の終わり
以前に触れたことがありましたが、僕が膨大な量の書物を読み漁るようになったきっかけは、18歳の時の彼女からの宗教勧誘でした。 もちろんそれだけではありませんが、その時人生屈指の集中力を持って考え、考えた結果宗教の教義に対して「価値観が合わない」と話すと大泣きされたという出来事がその後の人生観を大きく変えてしまいました。 そしてまた近頃になっては、20代の初めの頃に親友に宗教勧誘をされたことを思い出します。 特に思い出す必要もないのですが、ただ単なる春先の思い出を記した「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳
劣等感の克服と劣等コンプレックスの解消
劣等感の克服と劣等コンプレックスの解消について触れていきます。 劣等感を克服したいとか、劣等コンプレックスを解消したいという思いを持っている人も多いでしょう。 まあいつものことながら、劣等感・劣等コンプレックスそして「劣等」という評価について「それらは虚像」ということをお伝えするのではないか、という予測が立っているのではないでしょうか?もちろん見事にそれに沿う形でお伝えしていきますが、今回はわかりやすくするために普段よりもかなりレベルを落として書いていきます。 一応最初の方に「劣等感」や「劣等コンプレックス」の定義