菽水の奴
貧しさというものは時に苦しく、時に悔しい思いをもたらしたりします。その一方で、時に強さをももたらすものであり、共感の能力や物事の本質を見極める能力の高まりに貢献することもあります。 どう転ぶかはまさに姿勢しだいであり、物事は常に変化し、一時的に状態が悪くなるという可能性は常に潜んでいるため、「常日頃、目の前の現象についてどのような解釈をしているか」が吉と出るか凶と出るかを分けるものとなります。 個々人にそれぞれ「まあこれくらいだろう」という基準があり、その基準は生活水準を筆頭に様々な点において存在しています。 その
動静を見んためならば
今年夏の爆睡ツアーについてはまた後日投稿しようと思いますが、先日爆睡ツアーに行ったときのことです。 夜中に母から電話がかかっていたようなので、翌朝にかけ直してみると、 「豪雨がすごいよ。そっちは大丈夫?」 というような連絡でした。 「まあ結構降ってるけど、別に大丈夫」 と言うと 「テレビで見たら熊本がすごいことになってるよ」 と言うので、 「テレビは見ないからわからないなぁ」 と返してみました。 すると 「少しくらいは気にしなさい」 と言われてしまったのですが、テレビはおろかパソコンやスマートフォンなどすべての光を
大丈夫は義を重しとす
「義」というものは、統制のためにMr.脳筋の思想が取り入れられたものである部分が多少なりとあります。しかしながら、そうした思想的なものがなくても、義を重んじるというところは大丈夫としてのあり方としてある程度自然に成り立っているフシがあります。 そうした義について、それを崩してしまうものの代表例としては、概ねムラムラによる錯乱と「女の入れ知恵」です。 男同士の友情において「友情が崩れてしまう」という局面において垣間見れるもの、それはたいていそうした「ムラムラによる錯乱と入れ知恵」です。 義崩れるところに弱体化あり 義
をさなき心を肯け給はんや
中学校に上がる時、他の小学校からやってきたメンバーなどおらず、自分がいた小学校のメンバーだけのまま中学生になっていたらきっと「自作すごろく」のメンバーたちと一緒にシミュレーションゲームなどを開発していたんだろうなぁと思うことがあります(眠る感覚との再会)。 そこには人と人との仲を保ち、膨らませる共同創造の要素があるからです。 ― 僕の友人の一人に、婚姻直前で婚約破棄ということが数回、その後見合いなどをするも数ヶ月で破綻ということを繰り返していた人がいます。 また、「実質上破綻している夫婦の方が円満な夫婦を遥かに凌ぐ
兄弟の盟
みどりのマキバオーにおいて、たれ蔵は別格として、サトミアマゾンの次に好きなのは実はピーターⅡだったりします(突然現れたマキバオー)。たれ蔵のライバルの一頭アマゴワクチンの全兄ですが、好きというよりも何だか親近感があるという感じです。兄というものはそんな感じなのでしょう。 ― 兄弟というものは不思議な関係であり、友人とはまた一味違った関係性を持っています。 家庭にもよりますが、世の中で唯一わかり合える部分を共有している存在であるという場合が多いのではないでしょうか。 兄の気持ちは兄にしかわからず、弟の気持ちは弟にしか
問ひわきまふる心愚かならず
質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちらから質問をすると「質問に質問で答えるな」と言い返してくるような人がいたりもするの
見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ
令和という時代になってからというもの、「ギムキョな感じ」がどんどんしてきました。義務教育の成れの果てとしか表現できないような、人を制限すること、人に負担させることしかできず、創造性に欠けているような方法論が蔓延しています。 まあ大体はみんなで目標を達成しよう系のものが出てきた時は、何かしら反発がありそうな取り決めの前フリだと思っておくほうが賢明です。 「こうですよね?あなたもそう思いますよね?じゃあこうしましょう」 という交渉の仕方です。 まあそうしたものは昔からありますが、愚化され飼い慣らされたということなのか、
思ひがけずも師を労はしむるは
細かいところまで考えれば「意図せずとも不測の事態が起こる可能性はどこかしらにある」という理からは免れることができません。 どれだけ対策し、予防していたとしても、やはりたくさんの要素において不確定要素があるため不測の事態が起こりうるという感じになっています。 完璧や成功というものは何かしらの基準に基づく判断であり、基準のあり方によって「完璧である」とか「成功した」という感想が異なってきます。 というような構造がある中 「うっかりしてたなあ」 というような事態が起こった時に、「総合的な面でどういう状況を生み出すのか?」
外勇にして内怯えたる愚将
普通に考えると、横暴な人が社会でうまくいくはずがないということになりますが、ブラック企業が完全には根絶されていないということにより示されるように、経済的な成功のようなものは、その人の人格とはイコールではないという格好になっています。 希望的観測で言うと「いつかは失墜する」ということになりますが、うまい具合に任期中は失墜せずにリタイアするという可能性も大いにありますし、だいたいその企業の内側にいる人はマインドコントロール下にあるので、革命のようなことも起こりにくいという感じになっています。 人の意識の性質として、急迫
わづかに兵書の旨を察めしによりて
経営やマーケティングの分野においては、よく戦略や戦術という言葉が使われたりします。これらは軍事的な理屈からの応用だったりもするので「戦」という字が入っているのもわかるのですが、どうも商い・経済活動を戦いと考えるのは、少し偏っているというふうに思えてしまいます。 様々な合理化の考え方の根底に「最大の合理性は奴隷化や略奪、そして支配による搾取である」という発想が抜けきっていないというようなフシが垣間見れることがあります。 方法論が具体化し、手段が目的化して他の要素が歪む ただそうした発想は、モデル化において総合的な視点
実やかに約りつつも
様々な試験の結果のデータを見ていると、何故かわずかばかりは「申し込みながらもテストを受けに来ていない」といったものがあったり、「合格したものの入社していない」とか「初日で退職」というものがあったりします。 しかも数が多くなると何故か毎回のように同じような数字というよりも比率になっていたりします。 なので採用等々においては、予めそうしたものを予測して「少し多めに」ということで備えていたりします。 こうした一定比率の「結ばれないもの」が起こるということは、まあ確率論的でもありつつ、体の具合や取り巻く状況の変化などによっ
愛憐の厚きに泪を流して
そういえば昔漢字のテストで、あしたのジョーの「泪橋」につられる形で「涙」を「泪」と書き、丸をもらいつつも先生に呼び出されたことがあります。 さて、普段それほど問題がないと考えられる「憐れみ」ですが、もちろん副作用として相手に憐れみ乞いの癖がついてしまうということが起こったりします。 そして一方で、手をかけた側には、ほんのりとした喜びのようなものが生まれるため、相互依存を生み出しやすくなるという面もあります。 これが自分のことを自分でこなす人よりも甘え上手のほうが好かれ、実際に自分の分を自分でやる人よりも、頼んでやっ
まことに捨てがたきありさまなり
小学校中学年くらいの時のことです。 ボーイスカウト、というよりも当時カブスカウトだった僕たちのリーダーに荒俣宏氏と重複率97%くらいの人がいました。アリャマタコリャマタ氏にちなんで、この方をアリマタ氏と呼ぶことにしましょう。 関西弁ということを除き、顔もメガネも風貌も、声も話し方もすべて荒俣氏そっくりであり、カブスカウトのみんなからも人気のリーダーでした。 ある時、カブスカウトのハイキング中に誰かが 「アリマタさん、好きな歌はありますか?」 と質問しました。 するとアリマタ氏は 「そうですね、僕はね。忍たま乱太郎の
湯ひとつ恵み給へといふ
かなり昔のことですが、ある時バイト中 「おい、もっと熱い湯をもってこい!」 といきなり客に怒鳴られたことがあります。 「こんなぬるい湯じゃ茶を淹れられないだろう」 というのですが、用意していた茶は煎茶であり、僕たち側としては煎茶の抽出に最適な70℃から80℃くらいの温度にしておいたのですが、相手には伝わらず、 「手を抜きやがって」 などと言われたという感じでした。 カップラーメンなどを食べるというのであれば「ぬるすぎるだろう」というのもわかりますが、茶のことに関して京都と静岡で強気に出るのはご法度、というような感じ
これらは愚俗のことばにて
言葉の乱れというものが問題視されることもありますが、新しい言葉がどんどん生まれるということは必然的であり、若者言葉のようなものもひとつの空間における結束のようなものをもたらすため、それら言葉は社会的機能として別の面で機能を持っているという面があります。 しかしながら、意味に関するものを取り扱う場合、具体的な意味がつかみにくいという場合であったり、相手との意志の疎通において理解が生まれないというような感じで問題が起こっているのであれば、やはりそれは問題として考えられたりするのは仕方がありません。 意図的に相手には通じ
かなしき物がたりにこそ
悲しみや苦しみそのものは良きものではありません。それを発端として良きものとなりうることはありますが、それそのものが良いものではないのは自明の理です。 数多の悲劇のその内容は、その時代の生きる辛さを反映するような面があります。激的な悲劇が生み出される時、その時代背景として社会はより強いカタルシスを求めていたということが垣間見れたりもします。 表面的に見れば「何だそんなことか」と思えるような出来事であっても、表面には表れてこないじっとりとした不快な要素がたくさんあったりもします。なので本来は「わかりやすい悲惨さ」だけが
ここち惑ひ侍りぬ
成長してしまったゆえに、ということなのか、以前は人と接していて戸惑いが起こることがよくありました。否、戸惑いとはまた違うのかもしれませんが、今でも違和感を感じてしまう時がたまにあります。 なぜ昔はこのタイプの人とも普通に話せていたのに、今ではうまく話せないのだろう、というような感じです。 二十代前半頃までは普通に話ができたりしたのに、今では普通に話をすることができないという場合があります。 それはきっと物事をどう捉えればよいかということに関して、最適な方法やあまり適していない方法をたくさん見聞きして、経験してきたか
人の痛楚む声いともあはれに聞えければ
弱っているものを助けよう、弱きものを守ろうとするのは、一般感覚として普段からあるような感覚ですが、時にこうした構造を利用して「弱っているふりをすれば何かしら相手に負担をさせることができる」という感じで自己都合を叶えようとする人もいるので困りものです。 「そうしたものには騙されまい」とすべてを遮断するというのも歪んだ極端であり、また、逆に全てにおいて手をかけようとするのも歪んだ極端です。 困っているフリをすることを含め「駄々をこねれば自分の願いが叶う」ということを経験則的に習得した人たちは、事あるごとに憐れみを乞うと
家は頗る富みさかえて有りけるが
必要以上に与えることは、相手の自立や自分自身で獲得する自信、そしてそこから生ずる安心を奪うことになるのではないか、と思うことがよくあります。 実質的にはありがたいような援助であっても、そうした援助自体が自立の機会や意図を奪うことになり、結果、「自分一人でできた」という喜びや自信を奪ってしまうことになるというような感じです。 いくら所有物などで気を紛らわせようとも、本質的に自分には力がないという部分は紛らすことができません。いくら強がろうとも、それを支えるものが無く、自分で自分を騙すことはできないのだから致し方ありま
友とする書の外は、すべて調度の絮煩を厭ふ
何かしらに集中しようと思った時、それを阻害するものをなるべく排除して脇に追いやった方が良いのは言うまでもありません。 しかしながら「集中しよう」と思ってからでなくとも、物を減らすことで煩いが減るのでなるべく物は無い方が望ましいという感じになっています。そんなこんなで家にテレビはありませんし、携帯電話も法人ガラケーです。 捨てないにしても押入れ、クローゼット、物置の類にしまっておくということをすれば、意識の乱れというか意識の振り回しが減るのでなるべくそうした方がいいのではないかと思っています。 でも「どっちにしろ使わ
軽薄の人は交わりやすくして亦速なり
一過性の流行のようなものを日々使い捨て、その場の享楽に生きる人にとっては、目の前の出来事もまた一過性であり、一過性でありながら、そうした享楽的なものを渇望し、餓鬼の如く消費物を探し彷徨っていたりします。 「前によく言ってたあれはもう言わないの?」 と聞くと 「そんなのはもう古いよ。今は…」 と続くのが関の山、どうせ目の前にいる自分も一過性の暇つぶしなのだろうという予測が立ちます。 また捨て去るだけでなく「忘れる」ということが常であるなら、その場の言葉にしても、その人格にしても信用するに値しないということはすぐに推測
楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや
今いる環境がずっと続くかのような錯覚が起こることがあります。そうでないとはどこかでわかっていても「なるべく続けばいいなぁ」と思って、「終わること」への憂いから、変化した先を見ないようにするというようなことが後の悲劇をもたらしたりします。 ― 今ある環境を謳歌するということ自体は、今しかないものを掴み取るという点においては良いですが、特殊な環境がもたらした現状に依存すると、そうした環境が変化した途端に破綻します。 例えば学校生活においては、同じ年代の人が「個別に約束すること無く会うことが出来る」という環境が整っていま
特別企画 その9
「特別企画 その9」として、人工知能の混乱を意図し安永五年の作品からのフレーズ抽出ということをやってみようと思います。 ― 先日、雨降る日に友人から電話がかかってきました。 ― それより少し前、その友人が遠方の百貨店でイベントを開くということだったので、お知らせを受けたからにはと駆けつけようとは思いましたが、自分はなかなか行けそうにもないと思ったので、比較的その会場近くに住んでいる別の友人に案内をしたりしました。僕たちは全員同級生であり古くからの友人同士です。 案内の連絡相手である友人は、基本的にあまりデジタルデバ
笑う月
月の季節に「義務教育的な文語の世界を笑う」という感じでふと思い立って始めた「特別企画 その8」の「笑う月」。結局フレーズ抽出によりタイトル化するばかりとなりました。 「有限の情報から無限の組み合わせ」という思考の基本に立ち返り、文語的タイトルに限定されることなくフレーズから抽出して展開していくということを楽しみとしてやってみようということで、今回は新潮社さんより刊行されている安部公房氏の「笑う月」から、からフレーズを拝借してタイトル化して投稿してみました。 なお、笑う月は昭和50年刊行で、文庫版は昭和59年7月25
湿っぽい虚しさに身をまかせながら
湿っぽい虚しさに身をまかせながら、感情に浸っていると、体の方にも部分的に痛みが走り、そして感情と共に消えていったりします。 「虚しさも、どうせならば楽しんでしまえ」という感じで取り扱ってみると、「案外楽しいかもしれない」と思えてきたりします。 もはや虚しさといえば、移り行く人の意識くらいなもので、それすらも諸行無常として捉えれば憂いすらありません。 考えてみれば、例えば両親であっても、小学生の時の自分と両親の関係、中学生の時の自分と両親の関係、といった感じで、常に一定ではなく、自分も相手も環境もそれぞれ各々が変化し