この衝動が荒れ狂いさえすれば、禍いなるかな!
他人たちに対する愛着と配慮の衝動(「同情的好意」)が現在の二倍の強さになるとすれば、地上では全く耐えきれないであろう。日々刻々、各人が自分自身に対する愛着と配慮からどんなに数々の愚行を犯すか、またそのとき彼がいかに耐えがたいものとみられるかを、まあちょっと考慮するがよい。 曙光 143 前半 人に止められてでもやってしまうこと、それが
共感
他人を理解するために、すなわち、彼の感情をわれわれの内面で模像するために、われわれは実際しばしば、彼のしかじかの一定の感情の起因を尋ねて、たとえば、なぜ彼は悲しんでいるのか?と問う。― そうすると同じ起因にもとづいて自分でも悲しくなる。しかしそれよりもはるかに普通であるのは、そうしないで、感情が他人において及ぼしたり示したりする結果に
罪としての懐疑
キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半 「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている
自発的な盲人
ある人物または党派に対する、一種の熱狂的で極端な献身がある。これはわれわれがひそかにそれらに優越感をもつこと、われわれはそれらのために自分に不平を鳴らすことを示す。われわれの眼があまり見えすぎた罰として、われわれはいわば自発的な意志で自分を盲目にするのである。 今年の6月に僕は目が日に焼けて、いわゆる雪目(紫外線性角膜炎)になりました
われわれの方が高貴である
忠実と、寛容と、名声への羞恥心。この三つがひとつの心情に合一すると― われわれはそれを、貴族的、高貴、高潔と呼び、これによってギリシア人を凌ぐ。 曙光 199 序 「高貴」という字を見ると、どうしても10代の頃にオールディーズライブハウスで見かけた「軽快にステップを踏む髭のおっさん」を思い出してしまいます。 「こうしたものの嗜みもある
戦場で
「われわれは物を、それが値する以上におもしろく考えなければならない。ことにわれわれは長いことそれを、それが値する以上にまじめに考えてきたのだから。」― 認識の勇敢な兵士たちはこう語る。 曙光 567 真面目なことはいいのですが、歴代の偉人とされるような人々をよくよく観察すると、本質に対して真面目であるだけで、社会的には不良だった人が数
偉大な慈善家ルター
ルターが及ぼした影響の中で、最も意義があるものは、聖者たちに対し、キリスト教の観想的な生活全体に対して、彼が喚起した不信にある。それ以来はじめてヨーロッパで、非キリスト教的な観想的な生活への道がひらけ、世俗的な活動と世俗人に対する軽蔑が制限された。 曙光 88 序 ここで言うルターは、もちろんマルティン・ルター(Martin Luth
公私の告発者
告発し審問するすべての人をよく観察せよ。― 彼はその際自分の性格を露呈する。しかも、その犯罪を彼が追跡している犠牲者の性格よりも劣った性格を露呈することが珍しくない。告発者は、ある犯罪あるいは犯人の相手方は必ず元来よい性格でなければならぬ、またはよいとみとめられなければならぬ、と少しも悪気なしに考えている。― そこで彼は勝手気ままであ
倫理的な奇蹟
倫理学という科目がありますが、何だか哲学とごっちゃにされていたりしつつ、「誰々の〇〇という思想はどういうものか?」というお勉強の類に終わっているのが非常に残念だと思っています。大学の学部に関しても、海外では哲学部というものが結構あるそうですが、日本では文学部哲学科という省庁で言うところの庁くらいの位置付けになっているようです。 義務教
安価に生きる
最も安価で最も無邪気な生き方は、思索家の生き方である。なぜなら、単刀直入に言えば、彼は他の人々が軽視したり残したりする事物をこそ、最も多く必要とするからである―。 曙光 566 序 「安価に生きる」という感じを見ると、思索家は節制して生きるというような感じにも見えそうですが、楽しむという点で安価に生きるという点で捉えることもできます。
序列をその国民に与える
多くの偉大な内面的な経験を持ち、精神的な眼でそれを見つめ、見渡すこと― これが文化人たちを作り出す。彼らがその国民に序列を与えるのである。フランスとイタリアでは、貴族がこれを行なった。貴族がこれまで一般に精神の貧困者に属していた(おそらくもはや長いことではあるまいが)ドイツでは、司祭や、教師や、彼らの子孫がこれを行なった。 曙光 19
威厳と無知の同盟
そうだ、われわれの無知と、知識に対するわれわれの渇望の乏しさとは、威厳として、性格として、肩で風を切って歩くことを見事に心得ている。 曙光 565 文末 威厳を欲することはありませんが、社会の中で過ごす場合は、威厳がモノをいう時があります。それは蔓延する体育会系思想、儒教思想的なものの影響が大きいでしょう。こうした威厳のような権威性は
啓蒙主義に対するドイツ人の敵意
過去のものの完全な、また最も究極的な認識という外見のもとに、認識を一般に感情の下に押さえつけること、そして― 自分自身の課題をそのように規定したカントの言葉を借りていうと― 「知識にその限界を示すことによって、信仰に再び道をひらいた」ことは、決して少なからぬ一般的な危険であった、ということである。われわれは再び戸外の大気を呼吸しよう。
経験のすぐそばで!
大人物たちもまた彼らの五本の指幅の経験を有するにすぎない。― そのすぐそばで彼らの熟慮は止む。そして彼らの無限の真空と彼らの愚鈍とが始まる。 曙光 564 「もう一度ゼロからやり始めたい」 稀にそんなことを思うことがあります。それは過去に遡って「やり直す」という意味ではなく、違う分野でもう一度初心者から這い上がるというような感覚を味わ
肉体のキリスト教的な解釈者
とにかく胃や、内臓や、心臓の鼓動や、神経や、胆汁や、精液に原因を持つものが何であろうと― あのすべての不機嫌や、衰弱や、過度の刺戟や、われわれにとってはなはだ知られていない機械の偶然性の全体!― これらすべてを、パスカルのようなキリスト教徒は、そこにひそむのは、神か悪魔か、善か悪か、救済か地獄行きか、とたずねることによって、ひとつの道
利巧だが狭量
彼は自分以外には何ものも尊重する術を知らない。そこで彼が他人を尊重しようと思うなら、彼はいつもまず他人を自分に変えなければならぬ。この点ではしかし彼は利巧である。 曙光 412 ニーチェもうまいこといいますね。「利巧だが狭量」というタイトルがぴったりで、まるで落語のようです。 狭量は心の狭いことを意味しますが、まあもともと口がうまいこ
最も個人的な真理問題
「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序 「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うは
より美しいが、価値は劣る
絵のように美しい道徳。それは、まっすぐにほとばしりでる感動の道徳であり、けわしい通路の道徳であり、激昂した、強烈な、ものすごい、荘厳な挙動と口調の道徳である。それは道徳の未開の段階である。その美的な刺戟によってそそのかされて、高級な順位をそれに割り当ててはならない。 曙光 141 より美しいが、価値は劣るということで、安物の心理学を駆
不足の中にある精巧さ
ギリシア人の神話が諸君の深遠な形而上学に匹敵しないからといって、軽蔑してはならない!その鋭い知性にまさにここで停止を命じ、スコラ哲学や、理屈をこねる迷信の危険を回避する如才なさを十分長い間所有した民族を、諸君は驚嘆すべきであろう! 曙光 85 世を見渡してみると、「結局何がしたいんだ?どうありたんだ?」としか思えないような構造がよくあ
倫理的世界秩序の妄想
あらゆる罪が贖われ償われることを要求したような、永遠の必然性は全く存在しない。― そのようなものが存在するというのは、罪として感じられるすべてのものは罪であるということが妄想であるのと同じように、恐ろしい、ほんの僅かな部分だけしか有益でない妄想であった―。物ではなく、全く存在しない物についての意見が、人間の心をそのように乱したのである
憎しみをもたずに
君は情熱に別れを告げようとするのか?そうしたまえ。しかし情熱に対して憎しみをもたずに! 曙光 411 序 情熱と別れということで、叶わなかった恋、そして叶わせなかった恋というものについてでも書いていきましょう。 いくら情熱を持とうとも叶わなかった恋というものもあります。しかしやはり、何にも情熱を持てないままに過ごすよりは随分とその瞬間
いわゆる古典教育
われわれはあの詩を、しばしば感動して真に受ける。 「運命よ、お前に従おう! 心のすすまぬときも、そうしなければならぬわたし 吐く息も悲し!」 曙光 195 序盤抜粋 どうしても何となく調子が悪い時があります。そうした時には「風の流れが変わるのを待つ」ということをした方が賢明です。 風向きが悪い時に踏ん張り続けるとロクなことがありません
キリスト教の文献学
キリスト教が誠実と正義とに対する感覚を陶冶することがいかに少ないかということは、キリスト教の学者たちの著作の性格の上からかなりよく見積もることができる。彼らはその憶測するところを、あつかましく、あたかも教義のように提出し、聖書の章句の解釈に関して誠実に困惑することは、稀である。 曙光 84 序 あまりストレートに宗教学的な分野に触れる
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定住している人々と自由な人々
定住している人々と自由な人々ということで地元愛についてでも書いていきます。 なんだかんだで毎年毎年いろいろなところに行きますが、どの土地に行ってもそこに地元愛が感じられればその分だけ旅の醍醐味があります。 20代中頃は、周りの大企業に行ったような人たちが「いつまで地元にこだわるんだ?」的なことを自慢げに言っていました。 まあいろいろな
その幸福もまた輝かせる
実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561
道徳教師の虚栄心
道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序 万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すよう
あわれな人類!
脳の中の血が一滴多すぎたり、少なすぎたりすると、われわれの人生は、いいようのないほど惨めになり、つらくなることがありうる。そこで、プロメテウスがそのはげ鷹に苦しんだより以上に、われわれはこの一滴に苦しまなければならない。しかしあの一滴が原因であることをわれわれが知りさえもしないときこそ、一番恐ろしいことになる。知りさえもしないで「悪魔
エスプリと道徳
精神や、知識や、心情を備えていながら退屈であるという秘密に通じ、退屈を道徳的なものと感じることに馴れているドイツ人は、― フランスのエスプリに対して、それは道徳の眼をえぐり抜きはしないか、という不安を抱く。 曙光 193 エスプリ(esprit)は精神というような意味ですが、フランス語のためフランス的な精神という感じで使われます。まあ
聖職者の襲撃
「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から
小心者
ほかならぬ不器用で小心な人たちこそ殺害者になりやすい。彼らは目的にかなった小さな防御なり復讐なりの心得がない。精神と沈着な心構えとの欠乏のため、彼らの憎悪は絶滅以外の打開策を知らぬ。 曙光 410 なんだか曙光のこの項目を見ると北九州一家監禁殺人事件の緒方純子受刑囚を思い出します。それだけでなく、世のDV被害者が浮かびます。変な宗教ま