経験のすぐそばで!

大人物たちもまた彼らの五本の指幅の経験を有するにすぎない。― そのすぐそばで彼らの熟慮は止む。そして彼らの無限の真空と彼らの愚鈍とが始まる。 曙光 564

「もう一度ゼロからやり始めたい」

稀にそんなことを思うことがあります。それは過去に遡って「やり直す」という意味ではなく、違う分野でもう一度初心者から這い上がるというような感覚を味わいたく思うという感じです。

そういうわけで先日から、全く畑違いのカテゴリを追加して書いてみようかなぁというような感じのことを思っています。が、殆どの分野の書籍は一通り読んだりしていますし、大抵のことは「全くの初心者」というわけでもないので少し困りものです。

感覚としては「子供だまし」にすら過剰に反応してしまう小学生位の感覚を味わいたいという感じです。

眠る感覚との再会

今の仕事で言うと、もう技術的に極めるような対象がありません。細かい点については、探せばいくらでも改良点ありますが、その改良の先にあるものが読めてしまうので、あまり面白みを感じないようになりました。

そして同時に、消費者側との情報ギャップによって、「どうせ伝わらないだろう」という諦めのようなものがあります。

単純には例えば、本質的には「理解者」で触れたおばあさんのような人を求めるべきが、顔のいいアイドルのほうが評価されているというようなギャップです。

顔のいいアイドルにキャーキャー言っている人にしてみれば、その本質は盲点となり、いくら説法してもそこを見ようとはしません。

で、そういうのが面倒くさいんです。

自分としては本質の方を評価しているのにビジネスとしてはアイドルを薦めなくてはならないというような齟齬です。

でも、本業としては全国的に間口を広げて、本質だけを求める1%の人たちだけを相手にすればそれで成り立ちますのでそれでいいと思っています。

家庭教師的なことをした思い出から何となく思い返したこと

そういえば最近ふと家庭教師的なことをしたことを思い出します。

といっても受験生と言えば受験生、でもその人は当時24歳。友人の友人にあたる人でした。

高校を中退して、生保レディをしていたものの、転職したいので准看の学校に行きたいということでした。

そんな人の受験勉強にお付き合いしたことがあります。

で、はっきり言うと失礼にもなりますが、想像以上に勉強ができないんです。

端的にはバカの烙印を押されても仕方ないような学力でした。

でも本人は前向きで真剣でした。

そうなると僕も適当にやるわけにはいきません。

そういうわけで、なるべく合格に近づくようにと一緒に勉強をしました。

で、勉強の仕方ですが、学習と演繹で触れているように、勉強の仕方自体を最初に習っておかないと時間を浪費することになります。

といっても、受験日はすぐそこまで迫っていました。

面接試験もあるということでしたが、彼女はバイトの面接と同じように考えていたようです。

僕は彼女が問題を問いている間、面接の文例集をネットで検索して、休憩時間にそれと同じ質問をしてみました。

「うーん…」

答えに詰まったようです。

ということで、「面接も対策しておこう」という感じで、本番に備えるために文例集をプリントアウトして渡しました。

結果その年の受験は落ちました。で、翌年には合格したようです。

「勉強の仕方」にすら出会う機会がない環境差

その時のことを思い出すと、環境等々で「勉強の仕方」にすら出会う機会がないということが残酷なことのように思えてきました。

確かに学習時間という意味ではある程度平等なのかもしれませんが、先生の質も千差万別ですからね。

社会のそういう面を改善していけたらなぁ、ということは思いますが、そうなると全く畑違いの教育分野に進出ということになりそうです。

しかしながら、教育分野の客層は、元々教育熱心な人たちの子供だったりします。でもその場合は既に大手の予備校などで「勉強の仕方」に出会う機会があると思うので、少し違うと思います。

ビジョンと異なる客層

今の本業にも通じるところですが、僕はどちらかと言うと自分の技能を使うことで、言い方は失礼ですが「不器用に生きている人たち」の手助けをしたいというものが根本にあります。

職人気質で腕に自身はありつつ、本当に良い物やサービスを提供しているにも関わらず、集客や運営が下手だったり、という感じです。

そうした人の手助けをしたいと思いつつも、そうした人たちは自分の技能を磨くこと以外は盲点となっていて、集客や運営に関しては無関心だったりします。ということで、出会う機会がすごく少ないのです。

一方、そうした技能を追求することなく、人を騙してでも金儲けがうまいような人たちほど、集客や運営に関するサービスをうまく使い、さらに儲けを出します。

起業してからと言うものこうしたビジョンと異なる客層との出会いによる辟易が積み重なっているのが本音です(最近ではそういう人たちの依頼をすべて断っています)。

そういうわけで、学力向上のようなサービスを提供したとしても、結局は僕が手伝いをしたいような不器用な人ではなく、受験亡者のような人しかお客にならないという感じがしています。

そして収益性を考えれば、ハイクラスの教育サービスを特定の人に高額で提供する方が理に適っています。でもそれではビジョンとは合致しません。

本来は受験生に限定するわけではなく、前向きに歩き出すことを決意した人全員にサービスを提供したいと思っています。

さあどうしましょう。

とにもかくにも先に何かしらで稼いでしまいましょう。

経験のすぐそばで! 曙光 564

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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