道徳学者への忠告
われわれの音楽家たちは大きな発見をした!興味を引く醜さは、彼らの芸術でもやはり可能なのである! 曙光 239 冒頭 「フックとしての醜さ」という手法が取られるようになりました。違和感を覚えさせることによって、興味関心を惹くという手法です。怒りやがっかりすら使われるようになりました。アイドルにボクシンググローブを付けさせるような手法ですね。 そうした手法を垣間見た時、ふとイワン・シャポヴァロフ氏を思い出したりしてしまいます。 t.A.T.u.とイワン・シャポヴァロフ氏 そういえば、十年ちょっと前にt.A.T.u.とい
優美への努力
もし強い性格の人が、残酷への傾向をもたず、いつも自分自身のことにかかわるのでないとすれば、彼は知らず識らずのうちに優美を求めている。― これが彼の目印である。弱い性格の人は、これに反して辛辣な判断を好む。― 彼らは、人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学的に誹謗する者たちの仲間になるか、または厳しい風習や苦しい「職業」の背後に引っ込む。こうして彼らは、性格と一種の強さを得ようと努める。そして彼らは、これを同じように知らず識らずのうちに行うのである。 曙光 238 「人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学
党派の悩み
友人との雑談の中にも、内容に少し社会的なことが混じるといきなりギクッとせざるを得ない時を迎えることがあります。それは、当の友人のご両親などに「君、政治に興味ないか」と迫られる時がある、という場合です。 これは一種の宗教勧誘のようなものであり、信者とは言わず党員になれという脅迫の瞬間です。そんな時にはすぐに「無いです」と答えねばなりません。 友人のお父さんを論破したところで、何の実りもありません。かといって、ある程度の意見が同一であっても、同調などしてしまえば何かの集会に参加させられたりなど、ひとつの駒としての役割を
罰
不思議なものだ、われわれの罰というものは!それは犯罪者を浄化しない。それは罪滅ぼしにはならない。それどころか、それは犯罪そのもの以上に顔に泥を塗る。 曙光 236 罰則そのものはどちらかというと、事後的な「更生への導き」や「罪滅ぼし」という規定というよりは、最後の一歩、つまり行動のゴーサインを出すことに対しての「予防的、抑止力的な意味合いが強い」ということは最近ではたまに出てくるようになりました。 さて、この項目では、まさに白靴下か黒靴下かでの一悶着の時のような、事柄についてつぶやいています。 具体的な罰則規定が無
第500回投稿記念
これで500記事目です。ということで第500回投稿記念の回です。 常連さんいつもご高覧ありがとうございます。あれほどおもんないグループについて書いているのに、再訪問いただいているということは確実におもんないグループの方ではないでしょう。 とうとう記事は500になりました。曙光のタイトルの量が膨大すぎて、なかなか進みませんが、通常カテゴリもちょろちょろと書いていこうと思います。一応3/28までは宝探しをしています。一周年が見えてきたところで「ぼちぼち」といわず、ブーストをかけて連投していきましょう(せめて一周年くらい
感謝を拒絶する
われわれはなるほど願い事は拒絶しても差し支えない。しかし感謝は決して拒絶してはならない(あるいは、同じことであるが、感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない)。これは深い侮辱である。― だがなぜなのか? 曙光 235 「感謝は決して拒絶してはならない」 「感謝を冷たく形式的に受け取ってはならない」これは、相手の行動や意志が自分の意志よりも優先されるという意味で、深い侮辱になりえます。つまり、感謝を受け取らざるをえないという一種の脅迫であり、恩を先に着せるという手法がこの世にはあるからです。 しかし、感謝はわざわざ拒
名声を憚る
甲。人がその名声を避けるということ、彼に讃辞を述べる者を故意に侮辱するということ、讃辞を憚って、自分に関する判断を聞くのを憚ること。― これは見当たることだし、よくあることだ。― 信じようと信じまいと! ― 乙。それは明らかだし、当然のことだ!一寸だけ我慢したまえ、高慢な貴公子殿! 曙光 224 「憚る(はばかる)」は、差し障りをおぼえてためらい、遠慮することさすようですが、名声を避けるという点については、先日の威厳と恐怖心で触れましたね。これは相手の高慢を避けるという意味で、こちらが高慢になってしまうという一種の
「良心的」な人々
最も厳しく良心的であることに最も多くの価値を認めるのはどういう人間であるか、諸君は注意したことがあるか?多くの悲惨な感覚を意識し、自分のことを自分で心配し、他人を恐れる人々、その内心を出来る限り隠そうとする人々、― 彼らは、あの良心的であることの厳しさと義務の苛酷さによって、他人が(ことに部下が)それによって受け取るに違いない厳しくて過酷な印象の力で、自分自身に畏敬の念を起こさせることを努めるのである。 曙光 233 昔、といっても小学生くらいから「あの人はいい人だ」と言われる人に対して何かの違和感を感じていました
ある討論から
甲。ねえ君、君は声がかれましたよ!― 乙。それでは私は論破されたのです。もうその話はこれ以上しないようにしましょう! 曙光 232 声が枯れてしまうのは、それだけ力んで話した証拠です。それだけ感情的にそれだけ情熱的に、必死に語り尽くした証です。 「ある討論から」ということで討論とその結果にかかる、権限や感情の問題について触れていきましょう。 討論に勝ち、表面上は勝ったようになっていたとしてもその結果自体が求めていたものとは異なったものになるというケースはよくあります。 討論と結果 討論には勝てたものの、結果は求めて
ドイツ人の徳について
世界中どこを旅していても出会うのがドイツ人というのが相場です。中国人は集団で観光に来ますが、各国で出会ったドイツ人はほとんど独りです。たまに船岡温泉が外国人でいっぱいになる時がありますが、話しかけてみるとドイツ人だったというケースが結構多いように思います。 さてドイツ人といえば次のようなお方です。 頭文字D(イニシャルD)が好きすぎて日本に来たドイツ人…”という動画でしたが、youtubeに著作権侵害の申し立てがあったため削除されました。 別のものを見つけました また削除されていました。 イ
「効用的。」
現在、道徳的な事柄の感覚はきわめて縦横無尽であるので、ある道徳が、この人間に対してはその効用によって示され、あの人間に対してはほかならぬ効用によって反駁される。 曙光 230 効用というものは極めて主観的なものです。主観的でしかありえないものなのに、その「ご意見」を寄せ集めて「客観」とし、様々な説得に使われていきます。まずは効用そのものについて触れていきましょう。 効用とは 広義には、「使いみち・用途」や「効き目・効能」などを意味しますが、狭義の効用(utility)とは、ミクロ経済学の消費理論に出てくるものです。
誇り
ああ、諸君はみんな、拷問をうけた者が、拷問のあとその秘密を抱いたまま独房に連れ戻されたときの感情を知らない!― 彼は相変わらず歯を食いしばり秘密をしっかりと守っている。諸君は人間の誇りの歓喜について何を知っていようか! 曙光 229 誇りについては以前に「精神に対する誇り」で触れました。この項目でニーチェは、「秘密を抱いたまま独房に連れ戻されたときの感情を知らない!」と言っていますが、それは誇りではなく「したり」ではないかと思ってしまいます。 ここでは「やったぜ」という意味ですね。 さて、世の中では、その実「した
讃辞の中の復讐心
讃辞、つまり褒めの言葉には、皮肉に代表されるように同一コミュニティに属しているかというような確認の属性から、お世辞のように煽てて物買わせようというもの、ただの羨望からの賞賛といった具合に、ただ単には測れず、一律には論じ得ないという属性があります。 皮肉の中には、相手の反応で相手の教養高さを測るというものもありますが、タダ単なる攻撃の場合ももちろんあります。ほめる・ほめられるという関係で自分の力を誇示しようというケースもあります。 讃辞と皮肉 讃辞(さんじ)とは、その字面のごとく賞讃の「讃」であり辞典の「辞」であるた
鎖につながれているもの
鎖につながれているすべての精神に注意せよ!たとえば、その運命のために、狭くて見苦しい境遇の虜にされ、そこで老いてゆく賢明な女性たちに注意せよ。 曙光 227 前半 ふとしたことで精神はすぐに鎖に繋がれてしまいます。世の中で良しとされ、みんなが持ちたがるものでも、やがてそれはただ単に手に入れたと言うよりは鎖へと変化していきます。 入りたかった会社に勤めたとしても、欲しかったヴィンテージのギターを手に入れたとしても、それが自分への鎖になります。 「鎖につながれているもの」ということで「絆」と呼ばれるものやネットワーク、
知名の士との交際について
甲。しかしどうして君はこのえらい人を避けるのか― 乙。僕は彼を誤解したくない!われわれの欠点は一緒に調和しない。僕は近眼で疑い深く、彼は贋のダイヤモンドを本物同然に身につけるのが好きなのだ。 曙光 226 ニーチェ 「しかしどうして君はこのえらい人を避けるのか」 bossu 「彼は、自らの従業員に違法な労働環境を与えながら、自らはMaseratiやLamborghiniをSNSのカバー写真にしているのが好きなのだ。そしてオーナーという言葉を使うことが好きなのだ」 ニーチェ 「しかしどうして君はこの手の車を避けるのか
急速に軽蔑される手段
早口に沢山のことを口にする人間は、ほんの短期間交際しただけで、たとえ彼がもっともなことを口にするとしても、われわれの尊敬を異常なほど大きく低下させる。 曙光 225 前半 早く多くしゃべることは、マイナスだとよく言いますが、早く多くしゃべることには、その奥に様々なタイプの動機があります。マイナスになるのは印象ですが、間を埋めて、相手が理解する前に、何か別の話題に切り替えようというものから、要約力がないというものから、必死の暑苦しさまで様々です。急速に軽蔑される手段ということになりましょう。 早口で話すことついては、
隣人の不幸で「心を高める」こと
彼は不幸である。そこで「同情する人々」がやって来て、彼にその不幸を鮮やかに描いて見せる。― とうとう彼らは満足し、心を高めて立ち去る。彼らは自分自身の驚きと同様に不幸な者の驚き楽しみ、すばらしい午後を過ごしたのである。 曙光 224 「隣人の不幸で心を高めること」とは、俗にいう「メシウマ」というものに該当するでしょうか。繰り返すようですが、他人を自分の飯のうまさの条件にしてはいけません。 それは倫理的にいけないというようなことではなく、他人の態度や経験が自分の気分の指針になってしまうからです。 「飯はいつでもうまい
いかなる道徳が退屈させないか
道徳の時間というのは他の授業とは異なり、変な空気感が出ます。それはやはり道徳というものは人生にストレートに関わることであり、ギムキョの偽善をひしひしと感じる時間であるからです。基本的に何かの教材を使って、自分たちの思想を教え込もうとしますが、やはり多感なティーンにはそれが偽善に映ってしまい、本来の目的からは逆行した結果が生じることがあります。 道徳の時間において懐疑や反駁はつきものです。それをそつなく返し、さらに道徳を語れるほどの哲学的思考を持っているのか、ということも問題ですが、「いかなる道徳が退屈させないか」と
病人の認識について
病人に気を使いすぎると、かえってその人の治りが悪くなるという場合があります。病中のままの方がその人にとって都合のいいケースがあるからです。 そういう考え方の原因は、人にもよると思いますが、特に幼少期の記憶があります。学校はサボれる、テレビは見放題、ジュースとまではいかないがスポーツドリンクは買ってもらえる、周りが優しくなる、というような記憶です。 そしてもうひとつ厄介なのが、医者に通ってよくならないのに、まだ医者にばかり頼るという点です。もう特にできるようなことがなく、痛み止め程度しかしてくれることはないのに、病院
人間と物
なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438 パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなことにカネを使うなら本物のほうがいいだろう」というようなことを言ったことは結構有名ですね。 実際の景色よりも写真が評価され、実物よりも絵が評価され、オリジナルよりもアイドルがカバーした方が売
恐れられる眼
威嚇された時よりも、こちらがギクッとする時の「こちらを見ているの眼」の方が恐ろしく感じる時があります。 それはまさに電車の中で英書を読んでいる人が、その真意を悟られた時です(電車で隣に掛けた客の本)。 世の中には、恐れられているものがたくさんありますが、その相手が「強いかどうか」より、「本気かどうか」の方が重要な事は言うまでもありません。 一見体つきは弱そうな人でも、命がけになればどんな手でも使いますから、そちらのほうが厄介です。 ミナミの帝王で、強面のお兄さん相手に、零細企業の社長が、「社員や家族守るためやったら
多分早すぎる
一昔前までは知りたくても知れない、調べようにもなかなか調べられない、よって自分塾を開き、自問自答するしかないという感じでしたが、最近では小学生でもiPadを持っています。自分が思春期の頃にはそういったものがありませんでした。 知りたくてもなかなか調べることが出来ない、調べようとしても調べ方すらわからない、という状態は自問自答力を鍛え、妄想力も空想力も、そして論理力すら養うものでありました。 しかしながら近年では容易に調べることができます。あまり調べて欲しくないようなことまで調べることが可能という感じになっています。
「汝自身を知れ」は学問の全体である
あらゆる物の認識の終わりになってはじめて、人間は自己自身を認識したことになるであろう。なぜなら、物は人間の限界であるにすぎないからである。 曙光 48 「汝自身を知れ」とぱっと見ると、「まずは自分を知ろう」というよく就職カウンセリングでありがちな自己分析のようなことをしか思い浮かばないと思いますが、一応これは古代ギリシャの神殿に掲げられたものです。 格言は短文であれば短文であるほど、たくさんの解釈ができます。理屈上は、文は長いほどひとつずつの単語の定義を解釈していけるので、長文のほうが解釈の幅は広がりそうですが、簡
言葉がわれわれの妨害になる
言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使おう」という場合、目の前の現象の属性をポジティブなものに解釈するようにフィルターを少し変更するような力です。 言葉によってフィルター変更する 本来無属性の現象を、経験の記憶と恐怖心のフ
特権
自分を自分で完全に所有している者、すなわち自分を究極的に征服してしまった者は、自分を罰したり、自分を赦したり、自分を憐れんだりすることを、今後は彼独自の特権であると見なす。 曙光 437 前半抜粋 自分を自分で完全に所有している者と自分を究極的に征服してしまった者という表現はいずれも、まだアイツの内にいることを示します。まず自分というものがあるという前提ですから当然ですね。少しややこしいですが、自分の実在と所有という考え方を保持している時点でまだアイツの内です。 自分を罰することも赦すことも、憐れむこともありません