芸術家
ドイツ人は、芸術家によって一種の夢想的な熱情に駆られることを願う。イタリア人は、芸術家によって自分の現実的な熱情をやめて休息したいと思う。フランス人は、芸術家によって自らの判断を表明する機会と話のきっかけとをつくりたいと願う。したがって、われわれが公正であることを! 曙光 217 「芸術家」と聞くと嫌な予感がします。さらに「芸術がわか
探求者で実験者
学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋 それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会
敵の意見
もっとも物分りのよい頭脳であっても、生来どれだけ緻密であるか、あるいはどれだけ低能であるかを測るためには、それらがその敵の意見をどのように把握して再現するかを、われわれは注意すればよい。このときそれぞれの知性の生まれながらの度合いが自分の秘密を漏らす。― 完全な賢人は、そうしようと望むわけではないのに、彼の敵を理想にまで高め、敵の矛盾
お世辞屋の風土
卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。
理解者
久しぶりにこのカテゴリテーマについて触れることにします。カウンセラーについて、そして「理解者」について触れていきます。 うつに関しては、理解者が必要であるというようなことが言われたりしますが、その役割として世のカウンセラーというものはきちんと機能しているのかどうかが疑わしい部分があります。 僕にとっての理解者であったおばあさん、カウン
われわれの愚弄さに対するわれわれの要求権
世の中には薄口の人と濃口の人がいます。濃口は言うまでもなく絶倫Z会メンバーですが、薄口の人とは、男性にもかかわらずうどん屋で「わかめうどん」を単品で頼むような人であり、その大半がギムキョであることも傾向として挙げられます。 ギムキョギムキョと言いますが、その中でもさらに細分化されることは言うまでもありません。温厚なギムキョは「人畜無害
悪人と音楽
音楽は彼らにとって、自分の異常な状態を傍観し、しかも一種の疎遠さと安心感を抱いて初めてその姿にあずかる、ただひとつの手段である、愛する者はだれでも音楽を聴いて思う。「これは私のことを語っている。私の代わりに語っている。音楽は一切を知っている!」 曙光 216 最終部抜粋 原則的にカラオケには行きません。よほどのことがない限り行きません
「自然音」の礼拝
自然音がリラックスするというのはよくあるケースです。自然界にある音は、耳に入っても特に気に触りません。それどころか自然を感じられて穏やかな気持になってきたりもします。以前少し触れましたが、逆に不自然な機械音はイラッとしてきます。「ピッ」系ですね。 しかしその中間である、自然的な音でありながら、自然界ではほとんどありえない音というものが
道徳的な目標の定義に反対
現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか
やはり英雄的
われわれがほとんどあえて口にしないほどいたって評判が悪いけれども、有益であって必要であることは行うこと。―これもやはり英雄的である。ギリシア人は、ヘラクレスの大きな仕事の中に厠の掃除を入れることを恥としなかった。 曙光 430 「やはり英雄的」ということですが、なぜか二十歳くらいから、英雄ならば「ひでお」、正義なら「まさよし」、勝利な
生贄の道徳
諸君は感激して献身し、自分を犠牲にすることによって、神であれ、人間であれ、自分を捧げている力強いものと今や一体であるというあの考えの陶酔を享受する 曙光 215 一部抜粋 世間の宗教のみならず、国家であれ大企業であれ、大企業ではないものの老舗であったり、有名なブランド力のある企業などに勤めると、意識しないままにこういった陶酔に酔うこと
不遜ゆえの悪
無駄に遜ることも、とどのつまりは「慢」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。 不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に
見せかけの利己主義
大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文

琴引浜
京都府京丹後市(旧網野町)にある琴引浜(ことひきはま)に行きました。日本で最大級の鳴き砂の浜です。琴引浜は、丹後天橋立大江山国定公園の丹後半島海岸地区の一部で、網野町の北東部にあります。石英質の砂が広く分布する全長1.8kmの白砂青松が美しい海岸です。浜の後ろ側には最終間氷期にできた古砂丘があります。京都府京丹後市網野町掛津にあるので
ドグラ・マグラ
本は今までにたくさん読みましたが、特に興味もわかなかったというのが本音です。しかしながら、「ドグラ・マグラについてはどう思われますか」というご質問を受けたのでついでに読んでみた次第です。 ということで、先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。 「ドグラ・マグラ」夢野久作 文自体はそこそこ長
新しい情熱
われわれの持つ認識への衝動があまりに強いために、われわれはまだ認識ぬきの幸福を、あるいは、強い確固とした妄想の持っている幸福を評価することができないのである。 曙光 429 一部抜粋 ニーチェには残念ですが「妄想の持っている云々」は余計でしたね。彼はアンチクリストへの衝動が強すぎて、それを糾弾することに意識が向いていました。キリスト教
何という寛大さ!
寛大さの「寛」は菊池寛(きくちかん)氏の寛ですが、菊池寛氏は「ひろし」と呼ばれても、特に気にしなかったそうです。しかし、菊池を菊地と書かれた時は「君、字が違うぞ」と、少し気にされていたそうです。 今回はいつもとは少し違った感じに、菊池寛氏の寛大さについてでも触れていきましょう。 ということで、直木三十五氏の「貧乏一期、二期、三期」につ
われわれの評価
あらゆる行為は評価にさかのぼる。すべての評価は、自分自身のものか、受け入れられたものかである。後者のほうがはるかに大多数である。なぜわれわれはそれらを受け入れるのか?恐怖からである。つまりわれわれは、それらのものであるかのような態度をとることが得策だと考える。そしてこの考えに馴れる。したがってこの考えは結局われわれの本性になる。自分自
消えた懐疑
古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋 「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。 現にあるものに懐疑的というこ
二種類の道徳学者
自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。同じように、人間の法則や習慣を見たり示したりするあの道徳学者たち― 耳や、鼻や、眼などが鋭敏な道徳学者たち― もまた、観察されたものを説明する道徳学者たちからあく
危機に瀕した者の慰め
どれだけのことが起こっても、慰めというものは必要ありません。起こった現象はすぐに消えすでに記憶になっています。記憶によって自爆しているのだから、何か他のもので埋めようとする必要はありません。 急激な危機に瀕する時は必死で目の前に対応しているだけで勝手に終わります。終わらなくても何かの結果を残して終わります。終わらなくても死んで終わりで
人生に失敗した人々
人生に失敗した人々ということで、人生の失敗について触れていきます。世間でもよく失敗という言葉が使われたりして、「人生に失敗した」とか「失敗続きの人生だ」とか言うようなことを嘆いたりする人がいます。 本来失敗の対義語である成功ですら曖昧な理由で生まれた「願望」の達成くらいの意味合いであるはずですが、世間では、成功とは経済的成功とかお金持
倫理の否定者には二種類ある
「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。 ― 第二に、それは倫理的な判断は真理にもとづく、ということの否定を意味しうる。ここで付け加えられるのは、倫理的な判断が実際に行為の動機であるということであり、しかしこの仕方で誤謬が、あらゆる倫理的な判
起源と意義
起源を知り、それを前提として考えることはあまり勧められたものではありません。まさにその「起源」というものに依存し、その方向性からしか物事見れなくなります。ただ、進化するにつれて元々の意義を忘れすぎな局面も、現代では絶えません。 起源と意義ということで、そうした物事の「起源」をあまりに推し進めることは単なる文化の名を借りた意識的な結界で
学問の美化
「学問は醜悪で、乾燥し、味気なく、困難で、長たらしい―さあ!われわれにこれを美化させてくれ!」という感情から、哲学と呼ばれるものが再三再四発生する。 曙光 427 抜粋 学問を修得していけばその分野での行動は良い結果になる、というのは揺るぎなさそうに見えて、あまり関係がありません。 たくさん勉強することによって、目の前にあるものが見え
思想家の盲目
思想家とは、思想を持ち、時に思想を説く人ですが、あくまで思想はただの思想で、それ以上ではありません。人を狂気に導く性質を持ちながら、問題は何も解決してくれないという性質を持っています。 思想家が思想を説いたりする奥には、たいていその思想が社会にインパクトを与え、その結果自分の都合が良くなるか、自分の中の何かが満たされるかといったものが
われわれ追放された神々
人類は、その由来や、その独自性や、その使命などに関する誤謬によって、さらにこれらの誤謬に基づいてなされた要求によって、意気が高く昂まり、再三再四「自分の腕前以上のことをして」きた。しかし同じ誤謬によって、名状しがたいほど多くの苦しみが、お互いの間の迫害が、中傷が、誤解が、また個人の内面や個人自体でのさらに多くの悲惨などが生まれた。人間
誰のために真理は存在するか
今までは、誤謬というものは慰めになる力であった。現在人々は、認識された真理に同じ効果を期待して、いささか長い間すでに待ち受けている。真理が他ならぬことを―慰めることを―果たすことができないとすれば、どうだろうか? 曙光 424 前半抜粋 ニーチェには残念ですが、真理は、誰のために存在するという性質のものではありません。誰かのために用意
不平家
それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」と
宣誓のひな型
「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠