われわれの評価

あらゆる行為は評価にさかのぼる。すべての評価は、自分自身のものか、受け入れられたものかである。後者のほうがはるかに大多数である。なぜわれわれはそれらを受け入れるのか?恐怖からである。つまりわれわれは、それらのものであるかのような態度をとることが得策だと考える。そしてこの考えに馴れる。したがってこの考えは結局われわれの本性になる。自分自身での評価。これはあるものが他人にではなくて、ほかならぬわれわれにどれほどの快または不快を与えるか、という点に関してそれを測定することをいう。 曙光 104 抜粋

ニーチェにしてみても、つまりは、「どっちにしても恐怖心が発端です」ということになります。快か不快の測定も、恐怖心から測定したがっているのですからそうなります。

評価には自己評価というものもありますが、もちろん一方で他人からの評価というものもあります。

「われわれの評価」ということで人からの評価とか他人からの承認といった方面から触れていくことにしましょう。

人からの評価

最近ではやたらと承認欲求などという言葉を使いたがる人が増えてきているような気もしますが、承認のパターンの一つである、「評価」という物自体が、「みんなに合わせて受け入れた基準」か「自分にとって都合がいいか」というような性質ばかりになっています。ですから、高評価を受けているから、ということは本来説得の根拠にはなりません。

しかしながら社会に触れていると勝手に評価されています。

世間は恐怖心前提で動いていますから、「評価しておいて測定しておかねば不安」だからです。また、自尊心が傷ついた人が、何かを評価することによって相対的にプライドを保とうとする、これも根底は恐怖心ですから表れ方は違えど、元の根っこは同じです。

利己的にほめようとする

それ以外にも、以前少し触れましたが、利己的にほめようとする寒い試みも最近ではよく見受けられますね。ほめる

評価など勝手にしておいて頂いて結構ですが、評価されたからといってその評価に反応してはいけません。また、褒めることに限らず、たまに相手を奮起させるために煽ったりする人がいます。が、体育会系ですから相手にしてはいけません。

評価は相手の都合で決められていますから、都合が変われば評価も変化します。たまに周りの影響を遮断して評価を変えずにいてくれる人もいますが、かなり少数です。

その人の評価も微々たる力

多数決を良しとする「社会」ではその人の評価も微々たる力にしかなりません。そういう「比較的優れた人」は、流行りでタイヤの細いチャリに乗るような人ではなく、ノアに乗って週末にイオンモールに行くようなタイプの人ではないでしょう。

意見を星の数ほど集めても無意味

民主主義では、前しか見ずに車を運転し、停止線を大幅に越えて停止し、当たりかければ逆ギレしてくるおばさんにも一票があるのだから絶望的です。購買というものを投票と類似するものとして捉えた場合、、そのような人でも経済社会ではお金を握っていますから、その人の意見は「貴重なご意見」になります。

ただ、そんな意見は星の数ほど集めても何の意味もありません。

しかしながらそんな人に売りつけるものに関してはそんな意見もそんな人達の評価も活きてきます。

評価など完全に無視してもいい

経済社会で有用だからといって、その社会的な有用性が、自分にもストレートに意義があるかは別問題です。そんな人達の評価を気にしている場合ではありません。評価など完全に無視して一向にかまいません。

社会においては「学ぶこと」はあるかもしれませんが、もうその手の人から学ぶことは一切ありません。

すべて恐怖心前提の、欲と怒りの見解なのですから。

尊厳・自尊心と承認欲求

われわれの評価 曙光 104

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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