夢と責任

「夢は人を狂わせる」

いつもそんなこと言っています。

ただ、すこし注釈を加えると、そうした狂いのもととなる「夢」は他人によって設定されたものであり、他人によって誘導されたものであり、また、たった数回味わった情動の記憶によるものであり、同時に、少ない情報源の中から設定し、夢を設定したからこそその周りが見えなくなっているという構造を持っているということです。

夢を持ってそこに邁進するのはいいですが、何度もそれを見つめ直すということをしていく方が安全です。

「この夢は誰かに設定された夢なんじゃないだろうか?」

「誰かに見せられた夢じゃなく、本当に自分で選んだことなのだろうか?」

そんな感じで自省するくらいでちょうどいいのかもしれません。

自分で選んだと思っていても情報の材料は外部から仕入れたもの

いくら自分で選んだと思っていても、それぞれの情報の材料は外部から仕入れたものなので、いずれにしてもオリジナルではありませんが、少なくとも他人の都合、他人の意図に誘導されていないかというところくらいは確認したほうが無難です。

自分に「夢」を設定した人たちは、そこに責任を持ちません。というより取りようがありませんから仕方ありません。と言うより最終的に受け入れたのは自分ですから、根本的にその人達の責任というわけでもありません。

都合の良い情報は大量に示される

ただ、社会は何となく周りの人たちにとって都合のいいようなことだけ大量の情報が与えられ、逆に都合の悪いことについては情報がシャットアウトされています。

例えば、ひとまず「勉強することはいいことだ」ということになっていて、それは「勉強のできる自慢の子供」とか、「勉強漬けにしておけば組織の中で使いやすい」とか、「学習塾への需要が高まる」とか、そういった大人側の都合がほとんどです。

確かに勉強というか「学習」すること、自分に必要な情報、興味のある情報をきちんと調べて、自分の頭のなかでまとめていくということは、本人のためにもなるのですが、いわゆる「勉強」はその字を見ればわかるように、「勉め強いる」、つまり強制的にやらせるというような要素を含んでいます。

それは誰のためか?

それは誰のためかということになれば、社会全体の都合、国家やおいおいその人を使用する組織、生徒の成績が自分の成績になる先生、「息子・娘は成績がいい」と自慢したい親だったりします。

不良になられるくらいなら、ということでスポーツなどが利用されることもあります。体が疲れて爆睡してくれれば、とかそういった要素も含んでいる場合があります。

だから義務教育的なことは、どんどん推奨され、それを補助する仕組みやそれに関する情報もたくさん流されていきます。

隠される情報

しかしそれに反した情報は、隠されます。

例えば、子供が「公務員になりたい」と言ったら、「そのためには勉強しておかなければね」ということしか言いません。

そういう気持ちを無くしてしまわれるよりは、そうした夢を持ってもらっていたほうが、何かと安心です。

ただ、そうした時に、「公務員の仕事の実態」とか、「組織の仕組み上の出世の限界」とか、「学閥による差別」とか、「他の職種への転職の可能性」とか、いわゆる「本音」のデータは隠されます。

社会見学などに行っても、そうした本音は話題として出てこないでしょう。

日々使い古される人々」で触れていますが、夢を潰すことと、「実際」を知らせることは別物だと思っています。あくまで知った上で選択するのが正しいはずです。

本音を隠すことで可能性を潰しているのです。

これは、目の前の夢を潰す以前に、また本人が見えていないようなより壮大な夢を潰しているのと同じです。

具体的な夢を一段階高めて見つめ直す

例えば「市役所に勤めたい」という子供がいるとします。

そうしたときは、「ということは行政にしかできない地域全体のためのサービスがしたいんだな?」と具体的な対象の抽象度を高めるとよいでしょう。

そこで「少し違う」ということであれば、もしかすると「この地元で働きたい」ということであったり、「行政でなくとも地域密着型の仕事がしたい」ということなのかもしれません。それであれば地銀や信用金庫、地方新聞社、地元のスーパーなどでもいいはずです。

地域にこだわりがないのであれば、国家公務員でもいいはずです。むしろ公務員でなくてもNPOなどでもいいはずです。

根本的に「不況が続き公務員になりたい若者が増えている」というテレビからの情報に恐怖心を覚え、漠然とそんなことをいい出したくらいにすぎないことがほとんどです。

夢を制限し、その先にある本人の夢を潰しているのはたいてい周りの大人です。一見都合の悪そうに見える情報でもどんどん開示していくべきです。隠すことも無作為の夢潰しです。

過去のデータからは答えを出すな

あとよく進路相談なんかで、今までの成績を元にその人が合格しそうな学校を選んだりすることがあるようです。

それは相談を受けた側の都合で、「ほら予想が的中した」ということを目指しているために、過去のデータからその人の進むべき道を選ぶ構造になっています。

これは過去からの因果を今に持ってきて、限界を定めているということです。

時期にもよるでしょうが、限界を他人が決めてはいけません。むしろ限界を外してあげることがあるべき大人の姿です。

相談員は、大して出世もしていない人

といっても、そうした相談員の方は、社会の中のポジションとしては大して出世もしていない人です。

そうした過去のデータから限界を決めてしまうような人だからこそ、そのような仕事をしているといっても過言ではありません。

本来可能であれば、社会的に大きく出世した人が進路相談を受けるべきです。

そして、こうした相談は、現在との距離が近すぎます。

本来、「その後自分がどうありたいか」くらい漠然としたところに夢を設定するべきです。

でないと、進路相談のあとに学校に入った瞬間、その先の設定で迷ってしまいます。

過去の実績で未来像を確定させてはならない

少なくとも現在以前のデータ、つまり過去の実績で、その後の未来像を確定させてはいけません。

というよりもっと手前から、もっと抽象的に考えれば、「その先に学校になど行く必要があるのか」ということにすらなります。

AはBだということを強調しているだけでなく、CやDやEという他の側面を隠すことによっても操作されているということを疑いましょう。

先の相談員の例では、対面している相談員が直接隠しているわけではなく、根本的にCやDやEを知らない人を相談員にしているということもありえるということです。

もしかしたらあなたの持っている夢は、だれかに情報操作され、歪んだ設定をされたものなのかもしれません。

夢と責任 曙光 128

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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