19歳くらいの病中の頃、おばあちゃんの家で2ヶ月ほど暮らしたことがあります。
特に実家が嫌だったとかそうした理由ではありません。
嫌ではないのですが、少し気が散るというか、そのままでは同じところをぐるぐるしているだけのような気がしたので、何かを見つけるために静かな場所で強い人と一緒にいたかったというような感じです。
理解者で触れたおばあさんとの出会いの後、僕は、すべてを解決するものではないにしろ、何かをまとめ、何かを見つけるために周りの中で最も精神が優れ、そして安定した寡黙なおばあちゃんの家で暮らすことにしました。
別に両親に勧められたわけでも何でも無く、自発的な意志でそうすることにしました。
深夜、玄関で見た気迫
ある時、バンドメンバーとスタジオに行った時、深夜0時には終わっていたものの話が盛り上がり、結局深夜2時にそこを出て、帰ったら2時半か3時くらいだったという時がありました。
するとおばあちゃんが玄関で立って待っていました。
「別に寝ててくれたらいいのに」
という僕に対しおばあちゃんは、
「娘から預かってる大事な孫の顔を見るまでは、床につくわけにはいきません」
とだけ言って、寝室に向かいました。
気が「強い」と「きつい」は別物
世の中では気がきついだけでわがままな人を気が強いと言ったりもしますが、本来気が強いということと、気がきついということは別物です。もちろん言語的な概念の定義は千差万別でしょうが、少なくとも僕はそう思っています。
おばあちゃんは本格的に気が強いということを、先の深夜の玄関の一件ですごく感じました。
強気な発言という部分だけ切り取れば、駄々っ子でわがままな人でも共通しています。ただ、駄々っ子のそれは、単に自分の気分を他人の責任にし、他人に気分を良くしてもらおうとするという意図が主であり、相手への思いなどは含まれていません。
強さに支えられた母性
おばあちゃんや、理解者で触れたおばあさんの持つ母性は強さに支えられています。気迫は相手を屈服させ得るほどのものとなっていますが、その奥にあるものは慈悲に近いようなものとなっています。
そういう意味で考えると、やはり優しさのようなものは、手前に強さがなければなりません。
勢いが強いだけの気迫は、気迫のレベルとしては浅いものとして感じられてしまいます。弱さを隠すような、気を奮い立たせるような雰囲気が含まれるからです。
強きものゆえ、静かなるもの
相手の意志を飲み込むほどの気迫は、概ね静かなものであり、情報的身体のような、空間的な大きさを感じたりします。
言葉だけ真似ても足りない時、おそらくその時は、こうした強さからくる気迫がまだ小さいものとなっている時です。
その弱さを作るもの、それは視野の狭さや自立心のなさのような気がしてしまいます。
教養という言葉が、幅広く、また深い「知」により生ずる精神の余裕を意味するように、本質的な強さや余裕からしか相手を飲み込むほどの気迫は生じないような気がします。
そしてそれは強きものゆえ、静かなるものとなっています。
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