脱皮することの出来ない蛇は破滅する。その意見を変えることが妨げられた精神の持ち主たちも同様である。彼らは精神であることを止める。 曙光 573
「脱皮する」ということで、人の成長について書いていきます。
十代の頃は、小学生から中学生、その先は人によりますが、高校生や大学生などになったり、働きだしたりと、その度に何となく違った世界が広がっていって成長しているような感じになります。
人間で言う脱皮という表現に当てはまるのが、世界の見え方です。
大きく成長というか脱皮する感覚になる時は、概ね自分の周りの環境が大幅に変化します。その中でも自分の周りにいる人がごっそり入れ替わったりする点が一番大きな環境の変化でしょう。
進学したりなどなど、いろいろな節目のようなときを経ると、日常で付き合う人が大きく入れ替わったりしますが、そうなると意識の中での重要な事柄、対象が変化し、今までの世界観の中で保持していたものに関しても重要度の順序が変動します。
しかしながら大人になると、そうした環境の著しい変化はありません。だから成長的なものはストップするという感じになります。
どのような枠組みで世界を解釈しているか
認知科学のような分野から見た時、どのような枠組み、フレームで世界を見ているかによって目の前の現象の解釈が変わるという感じになります。
そしてその世界観が具体的であるほど、具体的な観念の枠組み以外のものが見えなくなります。
例えば、共産主義の活動を頑張っているような人は、表向きは平等社会のようなものを目指しているというような感じに見えても、蓋を開けてみれば、弱者たる自分が楽になるように格差を是正して欲しいというような自分目線の都合だけだったりします。
全体を包括した抽象的な考えに見えて、実は具体的に「あまり儲かっていない自分の都合だけ」という感じです。
そしてそれを見抜かれているからこそ、いくら広報活動をしても周りには響かないのです。意見は正当であってもその奥にある動機が弱者的だから、という感じです。
増税に反対というところまではいいですが、では、税収の面や全体的な運営はどうしていくのかというところは曖昧です。消費者目線で、ただ自分としては「増税されたら困る」という目線しかもっていないというのが実情ではないでしょうか。
市民レベルであまり効果のない活動に勤しむよりも、消費税アップが気にならないレベルにまで自分は稼いでやろう、という視点を持っていません。
考え方によっては、そうした活動をしている時間があれば、人に役立つサービスを考えて実行して稼ぐという方法もあるはずです。
しかしそうした視点は見えません。
それが枠組み、フレームです。
そしてそうした視点は、「脱皮」的に大人になってからも成長していかないと抽象化されていきません。
経済社会的に考えた場合は、周りがフリーターばかりなら、フリーターの視点(フリーターから上場企業へ)、平社員ばかりなら平社員の視点、貧困自営業者なら貧困自営業者の視点しか持つことができません。
枠組みのない世界
例として経済社会的に書いてみましたが、経済社会という枠組みすら超えてフレームを変化させていくのが正しく、最終的には全てのフレームが外れ、ノンフレーム故に煩いがないという状態が最高です。
結局そうした枠組み自体は、何を重要としているかという感覚です。
それらが全て無くなれば煩いは起こりません。
なぜならそれらは全て、心の安穏に条件をつけるものだからです。
「友だちと遊び呆けたい」という安穏の条件
「友だちと遊び呆けたい」ということが最重要な人は、それが心の安穏の条件となります。
だからそれを叶えるために必要な状態を維持しようとします。
無意識レベルで友だちと飲み会をやったりカラオケに行っているときの体感の心地よさが最重要とセットされており、バイトか何かをやっている時はその疲労から心地悪さというものがセットされています。なので「本格的に働く」ということは避けるようになります。
だから、バイト生活を続けるのです。
周りにしっかり働けと言われたり、自分でも仕事を頑張ってみようかなぁというようなことを意識的に思っていたとしても無意識レベルとのギャップがあるため、今の状態を維持しようとします。
だからこそ、経験則的な「楽しい」ということやその延長以外のものが見えません。
洗脳された人のように働くことが正しいというわけではありませんが、それはそれでひとつの枠組みの状態であるという感じです。
資本主義が良いというわけではありませんが、そうした枠組みが現在設定されている、という感じです。
その状態では、目の前で楽しいことが起こっていたら、「自分もやりたい」ということくらいしか見えません。
そして、その枠組みが変化すれば、今まで見えなかったものが見えてきます。
枠組みの変化としての「消費者側と供給者側の目線」
「自分もやりたい」というところから、「この点とあの点を改善してサービスを提供する側になる」というところが見えてきますし、さらに進めば「それでは既存のコピーにしかすぎないので、あれとこれとを組み合わせて新しいものを作ろう」とか「利益率が悪いぞ」とか「スタートの時はいいが、後からこういう問題が出てきそうだから予め予防しておこう」といったようなことが見えてきます。
「友だちと遊ぶのが楽しい」というだけの消費者目線のままなら、「100万円の使い方」しか見えませんが、供給者目線に立つと「100万円の作り方」が見えてきます。
消費者目線自体が悪いというわけではありません。ただ、それだけだと「それだけになる」という感じです。
サービスには消費者側と供給者側がいます。
供給者側でも「自分たちは儲かっていないから、何とか儲かるように」とだけ思っている「枠組み」がある場合があります。
それぞれは具体的です。そうした具体的なひとつの目線を統合して抽象化すると「サービス」の本質が見えてきます。
自分目線の「消費者目線」という枠組みと、自分目線の「供給者目線」という枠組みが統合されれば、それぞれのフレームの面積を合計したような広い枠組みで世界を解釈できるようになります。
実はそれ以外にも、金融機関や行政、自社の従業員、消費者の家族、といった様々な具体的な枠組みの目線があります。
それらを全体的に見ることができればどんどん広い枠組み、つまり「広い視野」で世界を見ることができます。
これは経済社会の中のサービスの話ですが、そんな「サービス」すらまだまだ具体的です。
この心は自分が解釈した世界を受け取っているという感じですので、どこまでいっても「自分の都合」ですが、そうした「自分の都合」というフィルターをどこまで広い視野で純化できるのかによって、心が受け取る世界が変わってきます。
そして、そうした枠組みは、自分の心の安穏の条件です。
ということで、枠組みが全く無くなった先が、全く煩いのない世界を心が受け取るということです。
脱皮のきっかけ
そういうわけで、義務教育等々でも「視野を広げろ」というようなことをよく言われますが、そうした人たちの説く根本的な「視野」自体が資本主義だったり、教育方針だったりといったような具体的で限定された世界になっています。
人の意識が変化する脱皮のきっかけは、基本的には周りの人達を含めた情報状態です。
学校を出て働き出した職場の人達がみんな競馬をやっていれば競馬をやり始めたりして、そしてそのうち、その職場の常識以外の世界が見えなくなっていきます。
テレビ等々のマスメディアに触れている間は、そうしたメディア洗脳的な「私達の普通」のような枠組みの内にハメられていきます(テレビを見ない生活)。
自分の子供だけが大事だから、受験戦争があります。
自国の人たちだけが大事だから、戦争が起こります。
人間だけが大事だから、京都府のように「動物を殺してください」というようなことが言えるようになります。
人間だけが大事で、人間の定義を歪んだ自分の枠組みで決めるからこそ、有色人種差別が起こります。
データで人を判断しようとすると、人の良さが見えません。
そして、自分がデータで人を判断しようという枠組みの中にいると、自分がデータで判断された時に劣等感が生まれます。
そうした枠組みの中にいればいるほど、心の安穏とは逆行し煩いしかない世界が加速します。
そうした煩いからの脱皮をするきっかけは、まず、そうした具体的な枠組みを、単なる具体的な枠組みにしかすぎないと知り、他の具体的な枠組みの存在を思い浮かべ、それらを統合して抽象化していくことです。
今の日常も、自分が経験してきたことの累積情報からはじき出されたひとつの枠組みにしかすぎないと気付き、無意識的にそれに合わせようとしているにしかすぎないのだと知ることです。
「自分がまだ体験したことのない、想像もできない新しい世界が見たい」
と思うことがスタートです。
そう思うことで、自ずと隠れていたものが見えてくるでしょう。
脱皮する 曙光 573
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