歇息ませ給へ

笑ゥせぇるすまんの頼母さんのストーリーは、至るところで頼られ続け休めない男の心境が色濃く反映されています。初めて読んだときには「笑えないなぁ」と思ったりもしてしまいました。しかしながら自分が勤め人で、昼休みに飯屋でふとこの頼母さんの話を読んだとすれば、どこかしら心が軽くなるんだろうなぁというようなことを思ったりもしました。

頼られるということは一種の強さの証でもあり、自尊心に関わるようなことなので通常は喜ぶようなことになりそうなものですが、よほどの力量でない限り、会う人会う人に頼られすぎると「いつどこで休めばよいのか?」という気分になってきます。

まあ我が事で言えば、実家に帰ったとしても「役所から届いたこの書類なんやけど…」と母に記入の相談をされたりするので、体力が残っていない時は「それを教えるのは役人の仕事やから、役所に電話しろ」と言い返してしまうこともあります。

「できてしまうと頼りにされてしまい休み所が無くなる」という頼られすぎる人の心境を頼る側はあまり考慮することはありません。

できないほうが得という構造

そうなってくると「できる方がいいはずなのに、できないほうが得」という構造が生まれてしまいます。

車の免許を持っていると運転の負担が集中することになりますし、免許を持っていないと堂々と休むことができるという不平等が生まれます。それ自体は致し方ない面がありますが、そうした負担を強いておいて「その他労務は平等」などと言い出す人もいるので、たまに瞬間的に困ってしまうことがあります。

特に他人感がある場合はそうなりにくいですが、身内で気が緩むと平気で不平等な主張をしてくることがあります。というより不平等であることにすら気付いていないという場合も多々あります。

「ふざけるな」と言った方が逆説的に安定する

しかしながらそんな時「ふざけるな」と言えるかどうかが、関係性の安定に深く関わってきます。

普通に考えると頼られすぎている中であっても、それを飲み込んで受け入れる方が穏便に事が運ぶと思いがちですが、そんな時に「ふざけるな」と言った方が逆説的に安定するという構造を持っています。

なぜなら「頼る」ということが普通のこととして取り扱われだすと、「頼りにしている・頼られている」という構造が単に「当たり前」となり、恩義もなくなり、相手はどこまでも尊厳の軽視と当然感を出してくるようになるからです。

そして同時にそれが夫婦等の男女間であるのならば、結びつきの要因のひとつである好意というものが消えていく要因になります。

基本的に人は自分よりも強いものに惚れるようにできています。

しかし、自分の言うことを聞き、言い返しても来ないものを弱者であると判断していくようになります。そうなると、好意というものすら消えていってしまいます。

他人感があるときには、守ってくれている、助けてくれていると思いますが、だんだん気が緩んでくると「やるのは当たり前であり、やらないとすれば怠けている」という認識が強まっていきます。

そうなるとやったところで相手の頼り癖、怠け癖が加速するだけです。

なのでその気配が出てきた場合は、早い段階から時折「一から十まで頼るな。たまには自分で調べて自分でやれ」等々のことを言っておくほうが関係は安定します。

そしてそれに加えて、抱え込みすぎ、休むタイミングを逃して破綻するということも防ぐことができます。溜まりに溜まって破綻するよりは良いはずです。

良好な関係を意図して「ふざけるな」ということを躊躇ってしまうということが続くと、どこかで破綻するリスクが高まっていきます。

そうした事を考えた場合、優しさや強さから「ふざけるな」と言わないのではなく、相手の気分を気にしすぎて言えないという弱さであるというふうに捉えることもできます。

この好意に関する点は、会社における上司と部下や事業主と従業員の関係にも通じています。

歇息ませ給へ。

歇息ませ給へ歇息ませ給へとなる前に。

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