愚かなるかとつよく諌むるに

愚かなるかと強く諌められている方が、何が問題なのかを把握し、改善していくことができるので、その指摘が感情に任せた戯言でもなく、一考の余地のあるようなものなのであればそれはそれでありがたいものであったりします。

言われているうちはまだいいですが、年齢を重ねていくにつれて誰も指摘してくれなくなっていきます。ということで、どんどんと改善の可能性が減っていきます。

しかしながらあまりに度が過ぎていると怒りではなく呆れや情けなさという一種の悲しみがやってくるため、諌めるという気すら起こらなくなってしまうことがあります。

お客のおじさんだけが理解しているという悲しみ

そういえば最近洋菓子屋に行ったのですが、前のお客がケーキの注文をしており、かつ店内に店員さんがひとりだったため随分会計を待たされたというようなことがありました。

それはそれで順番なので仕方がないことであり、特に気にせず店内を観察したりして待っていたのですが、注文をしたりしているお客のおじさんは数分に一回振り返り、「待たせてごめんね」と声をかけてくれたりしていました。

別にそのおじさんは悪いことをしているわけではないのですが、気を遣ってそんな声をかけてくれているわけです。

しかしながら、そのお客のおじさんの用が済んで、いざ僕の番になったときにおいても、店員さんは僕が待っていたことについて全く触れたりはしません。

実際には15分近く待っていたのですが、お声がけをしてくれるのはお客のおじさんで、客商売をしているお店の側は気にもしていないというのは、やはり商売人として危ない領域にあるのではないか、と思ったりしました。

別に声をかけられたところで何がどうなるわけでもないですし、特に怒りも何もなかったのですが、「この人は大丈夫だろうか」と思ってしまいました。

自分の前に並んでいただけのおじさんが3回くらい声をかけてくれたにもかかわらず、お店の側はそのことを何とも思っていないという点は、近年のシロナガスチ○ポ流の「私達は間違っていない」とか「私達のルールで電話問い合わせは設けていない」いう雰囲気を彷彿とさせます。

というような感じだったので、「もう来ることはないだろう」というような感想だけもってその場の用だけ済ませて帰ることにしました。

というような一連の流れをAIで判定できるのか否かが疑問です。

2134円

また、つい先日になりますが、某ホームセンターでレジに並び、会計額が2134円だったので、2200円を出した時のことです。

2200円出したはずなのですが、

「2134円になります」ともう一度言われたので、聞き間違えたのかと思い、金額表示のところを見るとビニールカーテンで見えにくいものの「2134円」と表示されています。

実は自分が100円玉ではない硬貨を2枚出していたのかとか、実は聞き間違い、見間違いで数字を間違えていて、まだ金額が不足しているのかと思いましたが、何度見ても「2134円」と表示されています。

若干混乱が生じて固まってしまった僕に対して、店員さんは再度「2134円ですね」と言いました。

で、僕は一瞬どうすればいいのかわからなくなってしまったのですが、「2134円ですね」と答え返してみました。

すると相手は「2134円です」と言うので、「それで足らん?」と聞いてみました。

すると「こちらでいいですか?あ、いいんですね」のような若干意味不明の声が返ってきました。

このやり取りは何だったのでしょうか?

愚かなるかとつよく諌むるに。

それも伝わる相手にこそ。

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「愚かなるかとつよく諌むるに」への3件のフィードバック

  1. お会計の話は、代金と支払う金額の、一の位や十の位を同じ数字にするお客さんがいることを念頭に置いていたのかもしれませんね。

    本文です。

    要求が失礼に相当したら申し訳ありません。 

    このブログと雰囲気や掲載内容が近いものや、またはbossuさんが個人的に価値を感じるブログなどを教えて頂けませんか?

    もちろん、僕の背景がわからなければ答えようがない場合があることは存じています。

    メールアドレスは変更しました。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      会計時はそうした端数の面が影響を与えているのかとも考えましたが、数回のやり取りとはならず、おそらく二言目か三言目が「2200円のお預かりでよろしいですか」という言葉になるのではないかと思ったりもしました。
      感覚が異なるのかもしれません。

      さて、ブログ等々についてですが、大昔の掲示板のやり取り等々以外であまりインターネット上から直接的に学んだり影響を受けたことはないという感じになりますので、恐縮ながら特にご紹介するものは見当たりません。
      (ある程度ブログ等々の文化が浸透した現代と、自分が思索を繰り返していた時とは若干時代環境が異なるという点もあるでしょう)

      僕は基本的に日常の中で抽象的な哲学空間に入り勝手に思索し、勝手に行き詰まり、勝手に解決したという、ものがほとんどで、書籍等々からスタートしたりすることはあまりありませんでした。
      あくまで個人的な「?」から考えが起こり、行き詰まると考えに関連しそうな情報を集めていったという形になるので、ご参考にならないかもしれません。なお、それは書籍であることもありましたが、誰かとの問答であったりもしました。人だけでなく自然の動植物から学んだこともたくさんあります。インターネットの利用においては、あくまで問答という要素が強かったかもしれません。

      ただ、ご質問を受けて思い返すと、HTML手打ち時代のサイトでいくつか良質なサイトがあったような記憶もあります。が、ブックマーク情報等々サイト情報は大昔のPC内にあるので今ではサイト名すらわかりません。もしかするとそうした情報がわかっても各種サービスの廃止に伴いサイト自体が消失してしまっているかもしれません。
      端的には、もう10年以上あまり他のブログを参照することがないという点から残念ながらご紹介することができないというような感じになります。

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