「義」というものは、統制のためにMr.脳筋の思想が取り入れられたものである部分が多少なりとあります。しかしながら、そうした思想的なものがなくても、義を重んじるというところは大丈夫としてのあり方としてある程度自然に成り立っているフシがあります。
そうした義について、それを崩してしまうものの代表例としては、概ねムラムラによる錯乱と「女の入れ知恵」です。
男同士の友情において「友情が崩れてしまう」という局面において垣間見れるもの、それはたいていそうした「ムラムラによる錯乱と入れ知恵」です。
義崩れるところに弱体化あり
義が崩れるところに弱体化があります。
では、なぜ弱体化してしまうのか、それはムラムラを筆頭とした異性優先の発想が出てくるからです。つまり広い意味でのモテ意識が絡んでいます。
これは単にモテモテというものに留まらず、世間一般に言う「立派とみなされる人物像」に寄せているというようなものも含まれます。
「座っておしっこをしろ」
といわれて、「それもそうかなぁ」と従っているという様は、まさに男性の女性化という感じがします。
社会的に評価されたり、時に勤め先の取り決めで半ば強制されているような「イクメン」などという言葉もそれに大きく絡んでいる感じがします。
こうしたものは、理想的な社会という面では一見正しそうな構造をしていますが、裏で弱体化による副作用がたくさん起こったりしています。
十代ともあれば、そうしたことを説かれたとしても「うっさい!」と抗う感じもしますが、男性ホルモンの少なさから来るのかだいたいそうした事を素直に受け取ってすぐに従ってしまうという感じは「弱体化」という感じがしてしまいます。
平等社会という感じで考えればそれで良さそうなものですが、その裏で弱体化による悪影響がたくさん潜んでいたりします。
そのひとつは、「従っておいて、いざという時に許してもらおう」という大丈夫とは真逆の弱々しいナヨナヨした感が生まれてしまうというようなものです。
素直なのは良いですが頼りなく映り、結果的にモテすらしないという格好になっています。
義よりも女を優先し不義に陥る
またもうひとつの悪影響として、「義よりも彼女や妻や娘を優先し、不義に陥る」というものがあります。
これは明らかに横暴で狭い世界の都合だけしか考えていないような理屈の方を優先し、不義に陥ってしまったりするというようなものです。
そういえば、少し前家の前でうるさかった子どもたちの親が我が家に怒鳴り込みに来たということがありました(家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た)。
「間違っていても守る」というのはいいですが、守り方が異常であり、文句の言い方も異常です。
ふと思い返すと、一昔前であれば「間違っていても守る」という場合、あくまで教育的な要素を踏まえてという感じでしたが、その時の物言いや隣の家の騒音問題(足音や振動など隣の家の騒音への対処)の時の父親の対応は、「娘を攻撃するものを攻撃する」という感じであり、娘たちの横暴さを棚に上げているという感じがしました。
つまりこれらも、男性の弱体化です。
端的には「女にだけ合わせている」ということであり、社会全体的な「義」は棚上げされているという感じがします。それら問題に関して言えば、公共性、公益性の問題と法が無視されているという感じです。
入れ知恵により崩れてしまう友情
男同士の友情は基本的にはなかなか崩れませんが、崩れるとすれば誰か一人が政治主義や宗教、マルチネットワークにハマった場合か、女の入れ知恵により錯乱してしまった時と大体の相場は決まっています。
程度の差はあれ「女に入れ込み女に狂う」という感じで、義よりもそちらを優先してしまうことで、信頼関係が崩れてしまい、友情が破綻してしまうということがあります。
しかしながら、去っていかれた側としては通常そうして錯乱した相手の不義を「一時的な気の迷い」としていつでもまた迎え入れる準備はしています。
ところが一度不義に陥ってしまった人たちは、気恥ずかしさからかだいたい戻ってくることはありません。
―
バンド仲間等々を見る限りにおいてもそうしたことはよくありました。
バンド活動をしていたり、芸人活動、作家活動などをしている人達の間では、よく彼女側が嫉妬をしてくることがあります。
まあいわばそうした創作活動、共同作業、同業種のつながりというものは、一種の聖域であり体がつながった程度では入ってこれないような共同空間になっています。
ということで、スタジオで練習ということであっても、その数時間にものすごく嫉妬をする人たちも出てきます。
ひどい場合はスタジオの室内までついてくるということもありました。
そんな時に彼女を優先するようでは周りはやっていられません。
彼女の変な嫉妬心を鎮めようとそちらに気を使っているようでは共同作業などできません。
しかしながら、錯乱があるとそちらを優先し、入れ知恵に迷ってしまったりする場合もあります。
という感じで、何かにつけてそうした相手を意識する癖がついてしまうとどんどん弱体化していきます。そして結果、魅力すらなくなってしまい、モテすらもしないという感じになってしまいます。
そんな時に突っぱねるという男性ホルモンを感じさせるような振る舞いのほうが大丈夫という感じがしますし、その方が魅力が増します。
短期的な不安への耐性と溜めて爆発させるという視点
義が崩れてしまうか守り通されるかという点は、短期的な不安への耐性と「溜めて爆発させる」という視点の有無にかかっているという面があります。
義を通す場合「何かを受け入れる」というような面が少なからずあったりします。ということで短期的な不安を今すぐ解消したいという感じで過ごしていては、すぐに不義に陥ってしまいます。
そういえば、昔の彼女のお母さんが示したような「娘が負け組と付き合っている」というあの感じがまさにそれを端的に示しているような感じがします。その場の切り取りでその後のすべてを判断するような感じです(あの時は病中で19歳くらいでした)。
これは1年後の1000万円よりも、毎月の10万円のほうが安心するというような感じです。
そうした不安感の方に合わせていては、義も崩れるに決まっています。
短期的な不安に振り回される気質がある場合、中長期的に「溜めて爆発させる」という発想はありません。
これは性差的な不安のあり方の違いとも取れますが、「向いていない方に合わせる」ということが悲劇を生むというのは当然です。
まあそうした感じで向いていない方に合わせるということが起こってしまう背景には、リストラ等々への不安と、そうした時に面目が立たないというような不安感があるのでしょう。
「合わせているんだから、失敗しても責めないよね」
という感じでしょう。
という様はまさに大丈夫とは逆行しています。
ということで大丈夫ではないからこそ女性側としても本質的な不安感の払拭は叶いません。単純には「頼りない」という感じになってしまいます。
そして、社会においては、「なんだかんだ言ってもいざという時、嫁や子供を理由にして逃げるクチだろう」と、心底は信頼されないような感じになってしまいます。
「入れ知恵に迷い、言い返せないような理由をつけて逃げるのではないか?」というような予測が立ってしまいます。
ということなので、逆説的に相手に合わせると、「頼りない」、「義を通さない」ということになり、男女ともから相手にされなくなります。
「うっさい!」
といいながら
「オレに任せろ!」
というくらいが丁度いいという感じになりましょう。
―
大丈夫は義を重しとす。
女の入れ知恵に迷うな。
最終更新日: