動物保護と虐待といったコントラストによって、倫理的な人のあり方が見えてきます。
「Finn’s Lawと動物保護の意識」で触れていた「フィン」の活躍の動画を観ていると、関連動画で動物保護団体の活動の動画が出てきました。
すると関連動画で日本語で再編集された動画が出てきたのでいくつかご紹介しておきます。
どうやら日本語で再編集されたものは削除されたようですので、元となっていた動画を探して見つかりしだい再設置します(記憶を元に探すためなかなか見つからないかもしれません)。
Hope For Paws
動物を虐待するのも人間なら救うのも人間です。
それを見た時、トルコにてぼったくりバーで胸ぐらを掴んできたのもトルコ人なら、バスの休憩時間に紅茶をおごってくれたのもトルコ人だったことを思い出しました。詐欺を働きかけてこようとしたのも中国人なら、言葉が通じない中、必死で一緒にホテルを探してくれたのも中国人でした。
知人は、中国に留学していた時、大学内にて南京大虐殺の話をネタに中国人数十人に囲まれ暴行を受けかけたそうですが、別の中国人が数人で助けてくれたそうです。
虐待など何の目的でやっているのは理解できませんが、そうした人間のその悪しき部分は裁くべきであり、ボコボコにするくらいでちょうどいいと思っています。
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虐待や遺棄というと、昔読んだ手塚治虫氏の本で、「子供の情操教育が終わったからという理由で犬を捨てるような時代になった」という彼の嘆きが書いてありました。
虐待や遺棄の否定は当然として、それ以上の愛護の気持ちでいるくらいでちょうどいいと思っています。
Animal Aid Unlimited, India
(あと1つ)
ちょっとしたことですぐに折れてしまうのも人間です。
彼らを見習わなくてはなりません。
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うーんそれにしても犬のプロですね。
暴れる犬を見ると「狂暴である」ということが固定的であるかのように思ってしまうこともあると思いますが、犬の心の変化を見ると、それは固定的で確定的なことでも何でもなく、愛情があれば心は通じるのだということをも教えてくれます。
動物保護団体のあり方について考えたこと→「危険な美徳」
「家畜」や「愛玩動物」「経済動物」という表現について→「家畜、愛玩動物、およびその同族」
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