不死を夢見る人々に

大昔からでしょうか、不老不死を追い求めるようなテーマは数知れず、今でもアンチエイジングという言葉がちらほら歩いています。

そういう事を追いかけている人もちらほらいたりするものの、老いなかった人も、死ななかった人もいないので、現在もそのような人を確認できないわけですが、どうしてそんなにその事実を無視するのでしょうか。

しかしながらそんな事実よりも、もっと忘れそうになるのが、「不死は幸せだ」は本当か、ということです。夢見ているのだから、いいものだと思っていることは間違いありません。

「不死=幸せ」は本当か?

おそらくイメージでは今の苦しみがないような楽しい毎日の永続です。しかしながらその想像はいいところ数百年くらいではないでしょうか。すいませんが、同じようなことを数万年何度も何度も繰り返しても同じようなことが言えるのかどうか疑問です。

誰かと楽しいひとときを過ごしても「そろそろ家に帰りたい」と思う瞬間は数百回くらい起こります。起こっていないという人がいたら、それはそういう心の動きを見逃しているだけです。よくよく観察してみてください。楽しいひとときを過ごしている間にも「独りになりたい」と一瞬思う瞬間があるはずです。

そんなことを色々考えながら、「不死は幸せではない」という帰結を導いた場合に、すぐにアイツが反応するのは、じゃあ「死ぬことが幸せなのか」という点です。すぐに二元論化して対比される命題を真としたがる癖がありますが、ただの無知ゆえの癖なので、そっと抱きしめてあげましょう。

確かに苦しみの窓口が減ります。ただ、それは入り口が減るだけで、苦しみがなくなることとイコールではないかもしれません。

傷が痛むときは傷口周辺の神経が刺激されるから痛いと感じますが、その周辺神経にダイレクトに刺激を与えられたら、もっと痛いはずです。窓口が減ってもそれと同じようなことが起こるかもしれませんね。

また、他の刺激でごまかすことや上書きすることができなくなるかもしれません。肉体が崩壊するその瞬間に感じていた刺激がダイレクトに心を襲うかもしれません。

不死は一瞬でも叶ったことがない

その前に揺るぎない自分というものがあるかのような錯覚が前提になっています。今の自分と一秒前の自分も似たもの、似た働きが連続しているかのように起こっているだけで、別物といえば別物、同じようで違う、一瞬たりとも同じ自分であった試しはありません。

物質的にも水分含有量などは瞬間瞬間で変化しています。体重計に1分位乗るだけなら変化も見えないかもしれませんが、10時間乗りっぱなしだと、体重は減っていくでしょう。それは段階が小刻みで見えないだけで、変化したから減っているに違いありません。ということは、同じ自分ではありません。ほとんど同じですが、全く同じというのは一度も経験していません。

起きていてもそうなのに、数時間眠ったあとならもっと変化しています。テスト前日に寝る前はオドオドしていたものの、起きると寝坊気味で時間の余裕の無さから、オドオドしている暇もありません。心の状態が全く違います。身体も心も、消えることが起こる原因となって、瞬間瞬間で滅と生を繰り返しています。

「死苦」死ぬ苦しみ

不死を夢見る人々に 曙光 211

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

「不死を夢見る人々に」への3件のフィードバック

  1. 「瞬間瞬間で滅
    と生を繰り返しています」
    しかし僕はそれが怖いと思ったことはありません
    緩やかに変化しても別にかまわないでしょう
    それに人間が10年かけてナメクジになることはない

  2. 死ぬとまた別の状態が形成されより苦しむことになるかもしれません、しかし例えそうだとしても人間は結局皆死んでしまうのだからそれを恐れてどうこうってのもあれな気がします。
    もうめんどくさいから死んじゃおうってのはアリですか?

    1. 死についても、社会的/倫理的には定言命法的に否定されたりもしますが、結局個々人に自由自体はあります。
      周りがどう論理を展開しようが、論理としてもナンセンスな領域になりますので、他人が良いか悪いかを判断することはできません。
      (良い悪い自体が概ね社会的な判断になります。この心にとって良いか悪いかについてや、この心が何をどのように受け取るかという点についても示すことはできますが、対外的にその証拠を示すことはできません)

      社会における個人的自由はありながらも、生きようとすることも死を選ぶことについても意志自体の形成には、本能や他人がもたらした情報が影響を与えています。
      死を恐れることも多種多様な形で生を恐れることも、外界によって形成された現象です。
      その中で意図したことが展開され、結果を心が受け取ることになりますが、死についてはその実際を経験をし得ないため、生きている今の苦しみについて検討しお話することしかできません。なので、アリかどうかはわかりません。

      そうしたこの心としての関係性や社会的な倫理については論理を展開できますが、「その人の心」としての世界の展開については語りえないからです。

      諸法無我から考えると、受け取る働きである「心」が今をどう受け取るかというところがキーポイントとなるため、面倒だと思うことが無くなれば理屈上はそれでよくなります。

      死の先にある状態はどうあがいても「予測」しかできませんが、外に示すことはできないものの、今については「安らぎ」を実証できる、といった程度なので、それ以上は語りえないという感じです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ