アフォリズム 581-590

アフォリズム 581-590

  • 581.個人的感想の一般化と但し書き
  • 582.真面目さや致し方なさそうな状況からくる制限による狂い
  • 583.判断・決断と運びの良さ
  • 584.ペン選び
  • 585.できる限りの要約
  • 586.生涯の友
  • 587.相手の渇望への先手
  • 588.ユーモアの削ぎ落とし
  • 589.思考以外の方法
  • 590.できるようになること

581.個人的感想の一般化と但し書き

刑法の尊属殺人は削除されたが、その規定があった前提として「世話をしてくれた親に対して」というものがある。しかしながら当然に、そうしたものは大半の人の個人的感想からの一般論であり、世間の感覚から大きく乖離した「ロクでもない親」のことをあまり想定していないフシがある。

戸籍上は親であるというだけであり、刑罰の度合いを左右するほど「世話をしていたかどうか」「苦悩を取り除き、恩恵を与えていたかどうか」というような要素を約束するものではない。

これは世間的な個人的感想の一般論である「親に対して…」というものにも同様に当てはまる構造であり、

「多少の不足はありつつも、まともな親ならね」という但し書きがつくというのが世間の実際の本音である。

ただ、この「まとも」という感覚は、個々人によって基準が異なるため、なかなか定義することができない。

しかしながら、少なくとも作為不作為を問わず犯罪に該当するようなことをしていないという要件は含まれるだろう。つまり、傷害をはじめとした作為や、保護責任者遺棄といった不作為を避けることが「まとも」の最低限の基準を定めるものとなると考える。

582.真面目さや致し方なさそうな状況からくる制限による狂い

女遊びに走る夫の本音として「まともな妻ならね」という本音があり、買い物などに依存する妻の本音として、「まともな夫ならね」というような本音がある。

真面目さや致し方なさそうな状況からくる制限が、自分や相手を狂わせていく。

自分はまともにやっていると思っていても、疲れや時間のなさ、致し方なさを理由に、何かを棚上げし、それを見ないようにしているという状況が、自分と相手を徐々に狂わせていると思っておいた方が良い。

その棚上げし、見ないようにしている「何か」は、心底の健康、そして「男が男であること」、「女が女であること」である。

だからこそ男は「男が男であること」を肯定してくれるところに走り、女は「女が女であること」を肯定してくれるところに走る。

ただ、互いに「男が男であること」、「女が女であること」を肯定できないのは、生命として、生き物としてののエネルギーが枯渇し、余裕が無いからである。

世間の正論を振りかざす前に、「生き物としての力を取り戻す」ということから始めた方が、お互いに、そしてその周りにいる人達にとって状況は良くなるだろう。

583.判断・決断と運びの良さ

判断・決断の早さや正確さは、運や健康状態に比例している。

584.ペン選び

本当に学習をしようと思うなら、ペン選びから抜かりなく行う方が良い。長時間、長期間であるならば、それだけ細かな疲労も積み重なるのだから。

本体は高くても、替芯は安価であり、店に並んでいそうになくても、あるかどうかを聞けば店の奥から出てくるか、取り寄せてくれるだろう。

585.できる限りの要約

論述する形式の問に対しては、あらゆる限りの文献を集め、全体を見渡し、全体像を作り上げた上で、重要度に応じて削り取る作業をすると、比較的容易に覚えることができる。

情報の圧縮を心がけ、できる限りの要約を行えば、それだけ覚えているのも楽になる。

単語や短文をノードで結び、肯定や否定、原則・例外などを色分けするとさらに覚えるのは容易になる。論理和、論理積、否定、含意などの論理記号を用いるのも良いだろう。

586.生涯の友

いくら自分が殺伐としていても、沈み込んでいても、友達でい続けてくれた友達は、生涯の友として何にも代えがたい。

最初は学校といったような空間が自分たちを結びつけていたとしても、その後、血縁や制度、組織といった空間の結びつきによらず、いまだに縁のある友達というものは、何にも代えがたい。

結びつきが無くなり、去っていった人たちの数を数えれば、その有り難みが浮き彫りになる。

587.相手の渇望への先手

相手が自尊心を満たして欲しいと思い、承認や称賛を求めるような声をかけてくるのであれば、相手がそうした話を出してくる前に、「相手の求める二倍程度に相手に気分を高める言葉をかける」という形で先手を打っておくと、求められることによる辟易が低減する。

588.ユーモアの削ぎ落とし

経典等々においては、それを記述した者は、発話者ではないため会話の印象を記述したということになる。そのため、実際の対機説法におけるユーモアの部分は、「余計な部分」としておそらく大半が削ぎ落とされているだろう。

それゆえに格好はつくが、堅苦しく、敷居を高くしているようなフシがある。

589.思考以外の方法

知る、気づく、理解するといったことは、何も思考の専売特許ではない。

「考える」という方法以外に目を向けても良いのではないか?

590.できるようになること

わかっただけでは、できるようになったということにはならない。

「わかった」ということにしがみつき、わかるまでに至った思考のプロセスを重視しがちであるが、できるようになるためには、「わかる」といった領域以外の方法、思考の領域以外に意識を向けなければならない。

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