趣味というほどのものではないのですが、一応旅に出た時に、記念にと収集しているご当地新聞集めという習慣があります。
ご当地新聞を買う時か、何かの待ち時間で著しく暇な時くらいしか新聞を読む機会がないので、そうした時には一応全ての記事に目を通すことにしています。
するとだいたい社会面あたりに、社会学者と誰かの対談とか著名人の論説のようなものがちらほらあったりします。
社会学者が用いるSNSというキーワード
そうしたコーナーを見ていつも思うのですが、だいたい現代社会について触れられている時、「SNS」というキーワードが出てきます。
まるでSNSによるコミュニケーションが主流かのような論調が多いのですが、実質ユーザーや実質利用頻度は、その方々の想定よりもかなり限定的であると思ったりしています。
確かに意見としてある程度の数が表出されているという感じもしますが、社会の構成員のうち、一体どれくらいの割合の人がそれを利用していて、さらに何かしらの発言をする人ということになれば、全体に対して一体どれくらいの割合になるのだろうということを思ったりもするわけです。
例え何かしらについて言及している人が100万人ということになっても日本国内で考えれば全体の1%未満です。
アカウントは持っていても放置されていたりもしますし、いかにもという感じで発言している人などでいえば、ほんの僅かな数になるはずです。
リアルな調査が面倒なので手抜き
そんな中、どうして話題の中心がSNSになるのか、という点ですが、半分以上は社会学者などの「手抜き」にあるのではないか、と思っています。
そうしたデジタルコミュニケーションがない時代であれば、学内や都会の繁華街などを中心として直接的なインタビューをしていたと思います。
しかし、そうした作業が面倒なので、社会学者ですらインターネット頼りになった結果、SNSの利用やそこでの発言、コミュニケーションが、現代の人々の考え方の主流であるかのような結論になり、そうした偏ったデータから推測で語っているというような気がしています。
何かしらのSNSでキーワード検索を行い、そこに表示される発言を「現代の人の考え方」として捉えているのではないか、ということです。
もちろんそうした部分も、社会の一部として成り立っており、全くのデタラメというわけではありません。しかし、調査方法を手抜きした結果、データもそこから導かれる傾向もかなり偏っているのではないかと思ったりします。
データの集め方すら手抜きで空洞化
空洞化というと産業や地方について語られることが多いと思いますが、若干ズレるものの「データの集め方すら手抜きで空洞化」という感じすらしています。
SNSにはいくつかの機能がありますが、対外的に開かれていて第三者も閲覧できる部分と、閉じられた二者間やグループ間でのコミュニケーションという部分があります。
ある程度使っているとしても、後者の二者間およびコミュニティ間の情報伝達ということであれば、運営元やテクノロジーに多少の違いはあれ、20年前とさほど変わりはありません。
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情報への到達の容易さに応じて、その情報にそれほど価値はないという感じになります。なので、そうしたものをベースとした情報を元にした薀蓄は、それほど価値のある情報とは思えません。
ちょっと街に出ればリアルが手に入るのに、という感じがしてしまいます。
もしかすると、まだ「得体の知れないものの全容を把握したい」という恐怖心が残っている段階なのかもしれません。
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