際限のない「何をどこまで」を防ぐ表現

良いことと悪いことを考える時、通常の加点方式で考えてしまうと限界がなく「これでよし」という定義ができません。

「この心が苦しみを受け取る」という視点から考えた場合、いわゆる幸せ的なものは加点方式ではなく「本来の完全で理想的な状態を阻害しているものを削ぎ落としていく」という構造になるはずです。

対人恐怖と人間不信への対処」や「この世界のささやかな全て」などで善行為的なことについて「表面的な作為のみならず不作為すらも、不善ではないという事自体が、絶対値的に差分だけ与えられたということになる」という感じのことを書いたことがありましたが、それに付随するような形で、倫理的な違和感などについて触れていきましょう。

デモ行進などで倫理を説く人やボランティアに勤しむ人への違和感などなど、世の中には「別に間違ってはいないと思うけどなんか変だなぁ」と思うようなことがたまにあります。

「良いことをしている」という捉え方

高校生の時くらいにやたらとボランティアにハマったような人たちがいて、その人達は「良いことはどんどんやろう」と声を荒げるようにやたらとボランティアを勧めていました。

それはそれで個人の自由ですが、その時にものすごい違和感を感じました。

なぜなら、「良いことなのになぜやらないのかがわからない」ということを散々言ってきたりしたからです。

「変だなぁ」とは思いつつも放っておいたのですが、何なら相手は自分の意見に同調しないという点について「人間としてどうかと思う」くらいの空気を出してきたりしました。

まあそうした点は一種の自惚れという要素がありつつも、一応勧めている行為自体は非難の対象とならないような行為です。

こうした善行為的なものは一体どう扱えばいいのでしょうか?

何かをすることはよく、しないことはいけないという発想への懐疑

僕は十代の時、いつもどこかしら違和感を感じていました。

そうした行為に割く時間や労力などには、必ず限界があって、何をどれくらいすれば良いのかが決められないという点が最大の違和感でした。

そのボランティアに勤しんでいる人としても、全ての生命エネルギーを注いでいるわけではないでしょうし、まして時間的、体力的、金銭的余裕などは個々人によってバラバラで、環境も違うのだから、何かをすることはよく、しないことはいけない、というのはどうも違うような気がしました。

しかしながら、一応一般的な感覚で考えると、別にすること自体がいけないことではなく、むしろ良いことになるだろうという感じなのでなかなか論駁しにくいという構造を持っています。

不貪不瞋不痴から観るあり方

参考程度ですが、仏教において、この心を苦しめるものの一つの表現として貪瞋痴という概念があります。この貪瞋痴は、それぞれ貪り、怒り、無明を示します。無明は本質的には錯覚ですが、ここでは若干レベルを落として譫言や妄想、偏見という感じで捉えておきましょう。

無意識は肯定と否定を区別できないということで、対義語を当てはめてしまいがちです。つまり貪りならば、施し、与えること、怒りなら、慈悲や救うこと、譫言や妄想や偏見なら、現実性や合理性を帯びた知性という感じでしょうか。

すると、一般的な考えから検討した場合、与えたり救ったり賢ければ正しいという風に考えてしまいます。

しかし、それはそれで良さそうなものですが、よく考えてみるとそれらには際限がなく、到達点を定義できないという構造を持っています。

なので、仏教経典においては、「不貪不瞋不痴という感じでいいですよ」と示されています。

これのすごいところは、一般的な発想で「善行為」を定義し、倫理的な義務として扱うと、「何をどこまで」という発想になり、質的、量的な比較などができてしまうようになるという点を見越している点です。すなわち、思考が暴走すると功利主義的に「人の役に立っていること」がすばらしく、何もしないことは悪であるということになってしまうという発想を未然に防止しているという構造を持っています。

無意識の認知云々の発想で言語表現としては、「肯定的で明るい言葉の方がいいだろう」ということになりそうですが、そう表現すると誤解を生むという点まで見越して「ダメなものを否定する」という感じで表現されています。

「ダメなものを否定する」という部分おける、なぜダメなのか、なぜ良いのかという点についても、視点の構造はシンプルです。単にそうあれば「心が苦しみを受け取らない」という視点から導かれています。

その逆の社会的で量的で功利的な「社会全体を優先する」という目線自体が「痴から起こる」という点も見逃すことはできません。

所詮この心が受け取るものは、五感と意識から得るものだけなので「社会が変わった」と思う意識の部分についても、意識の情報状態の変化のみという感じになります。

際限のなさが混乱を招く

善行為とは何かを定義して、それに勤しむことを良しとするという発想は、その際限のなさから混乱を招くことになります。

することが良くてしないことはいけないことだ、ということになると、それをしていない時はすべて良くないことをしていることになってしまいますし、100万円分か1000万円分かとか、1時間か2時間かとかそうした数量的な発想にも陥りやすくなります。そして限界がないので、どこまでいっても満足というものは得られません。

例えば貪りの対義概念である施与であれば、いくらまで与えるのかという問題になります。寄付金であれば、どの団体に全資産のうちのいくらをという問題が出てきます。生活費を残しておくということになれば、「生活費を残そうという発想自体が善行為ではない」ということにもなる恐れがありますし、また、逆に経済的な最適化を考え、「何%は残し、何%は投資し、収益を最大化した上でトータルの寄付額を最大化する」という発想すらできます。で、そうなるとうまくいった人は良くて失敗した人は良くないなんてなことにもなってしまいます。

対義概念から考えると矛盾が生じる

また、先のボランティア的な話で言えば、「良いことなのになぜやらないのかがわからない」ということは、いわば対義概念としての「慈悲」の逆である瞋恚(怒り)を己の心に生じさせていることにもなります。自分の考えへの執著、同意されないことへの怒りなど、結局本人が苦しむことになります。同意への貪り、貪欲というふうに捉えれば、与えることとは逆になってしまいます。

かといってそうした行為がダメなのかというふうに考えた場合は、もちろん誰かの苦しみを軽減するということなので、ダメなわけではありません。

ただ問題があるとすれば、それによって意識の中にある不足を満たそうとか、怒りのエネルギーを解消しようとか、そうした概念としての方法論に執著してしまうことです。

結局俯瞰してみてみると、意識的なプロセスなどを介したりしながら「何かの行為の結果を心が受け取る」というだけだったりします。

何かしらの定義付けをして、その定義に沿うことで評価したり評価を獲得したりして安心しようという視点自体が無明から起こっています。

「能動的に善行為をしている自分は社会的に評価され、非難はされないだろう」という確認をもって社会から排除されないという安心感を得ようとするという感じです。これも洞察するとやはり生存本能としての恐怖心から起こっています。

欲や怒りや妄想がないかを確認すれば十分

そういうわけなので、際限のない「何をどこまで」を防ぐには、意識に起こった動機を観察した上で、その中に欲や怒りや妄想がないかを確認すれば十分です。

他者からの評価によって不満を解消しようとしているという要素はないかとか、怒りを発端とした判断ではないかとか、物事をまともに見れているかとかそうした感じです。

そうした無駄な欲や無駄な怒りや妄想がなければ無いほど、目の前の現象にまともに行為を為すことができます。

また、誰かからの何気ない行為についても「そうした欲や怒りや妄想を掻き立てられていない」という点で、「ありがたいなぁ」と思えるようになってきます。

Category:miscellaneous notes 雑記

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