輪止め

道徳的に苦しみ、その上この種の苦しみの根底には誤謬があると聞くこと、これは癪にさわることである。

道徳の新しい理解を阻止するものは、誇りであり、誇りを満足させる習慣的なやり方である。 曙光 32

省略しましたが、ニーチェは曙光のこの箇所(曙光32)で苦行ジャンキーについて触れています。

苦行を筆頭に、「苦しめばカルマが消える」「体を厭い痛めつければ浄化される」という思想から「努力そのものを賞賛する」といったものまで、苦しみや忍耐、自己犠牲を美徳とするものはこの世にたくさんあります。

そして「苦しむ」、「忍耐する」いったことが方法論になり、最終的にそれが目的になっているトンチンカンな様はよくあります。

苦しむことで過去のカルマが消えるという思想

静岡出身の人に聞いたのですが、歴史に名を刻んだあの日本史に残るテロリストのカルト宗教団体は、駅前で「罵声をください」的な活動をしていたそうです。完全に洗脳されています。

今時分が不幸なのは、悪業のせいであり、苦行をする、つまり苦しめば苦しむほど自分のカルマが消えて幸せになれると洗脳されています。

苦しむことによって、過去のカルマが消えるというような類ですが、そういう苦行のような行動でカルマを消すとかではなくて、そういうものから脱するということには着目しないのでしょうか。

「苦しめば苦しむほど悪いカルマが消え、身が清らかになり、幸せになれる」という状態は、幸せや安穏に条件を付け加えています。そうした条件付けを保持していることこそがカルマであるという解釈はいかがでしょうか?

「そうした因果がある」ということが因果になっている、という感じでいかがでしょうか?

因果を全て無効にする

苦しむことでマイナス要因だったものが消えるとか、いいことをするとプラス要因が増えるとかいうより、そういう因果を全て無効にするという点について考えたりはしないのでしょうか。

身体に苦しみを与えてもアイツこと自我の機能が一時的に低下するだけで、アイツの内にいることには変わりありません。

そしてその方向性に進もうとしている場合は、自分を弱らせてくるその「手法」すらも利用しようとします。つまり条件化です。

弱体化しながらその手法と同化

「アイツ」は、自らの機能が低下させられるなら、その手法と同化してでも自らを存続させようとします。それが苦行ジャンキーの中で起こっていることです。

残念ながらアイツを退治することはできません。

「退治しなければならない」、というのもアイツの手ですから、「別にいてもいいよ」と言ってあげなければなりません。

ただ、彼には何もできないことだけ「知っていれば」アイツの引力からは脱することができるでしょう。

輪止め 曙光 32

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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