蓋然性とあいまいさ

思えば「蓋然性」と「あいまいさ」が長年僕を苦しめていました。それは哲学的問いであり、とりわけ哲学的領域と社会との整合、社会生活における自分のあり方としての課題です。

ふと病中で活字中毒だった頃を思い返すと、この「蓋然性」というものをどう取り扱うか、どの程度の曖昧さならば良しとするのかの線引が難しく、その問いに真剣に向き合ってしまったからこそ「笑ってしまうような悩み」を抱えることになってしまいました。

あくまで確実性の度合いの問題である「蓋然性」であるのに、それに対する厳密な記述と論証を求めたと言うような感じです。確実性の問題に確実を求めたわけです。

伝承によると旅立つ前のシッダルタやサーリプッタなどもそんな感じで「無駄に思考が巡ってしまうタイプ」の人達だったようです。ということで「彼らも辛かっただろうなぁ」ということで親近感を覚えたりしました。そんな感じで、もしかすると同じような形で悩む人が一人でもいるならばということで、その一人のためにという感じで蓋然性とあいまいさについて書いていきます。

蓋然性とは何か?

たまに「社会は蓋然性の高さで成り立っている」というようなことを言ったりしますが、「その蓋然性の意味がわからない」という人向けに、一応まずは概観しておきましょう。

蓋然性(がいぜんせい)とは、「確からしさ」というような感じの意味を持ち、「おそらくまあそうだろうなぁ」というような確実性の度合いのことを意味します。それが起こるのかどうかとか、事実であるかどうかという確実性の度合いです。

「それって本当に起こったことですか?」とか「それって本当に起こるんですか?」といったような場合に、「それがどれくらい確からしいか」というような度合いのことが蓋然性です。

で、社会は蓋然性の高さで成り立っている云々ということについては、「確実に示そうとしても示しえないので、ある程度確からしければそれで問題にならない」というような感じで人と人との関係、つまり社会は成り立っているという感じです。

ではそんな蓋然性について、僕はどのように考え、どのような悩みを持ち、苦しさを感じていたのかということについて見ていきましょう。

軽い買い物にもいけなくなった日

ある日突然、「証拠って何だ?」ということが気になりだしました。

そんな中、家に書留の郵便物が届きました。

受け取りのハンコを押して、郵便物を受け取った僕は、ふと疑問を持ちました。

「このハンコは100均にも売っている物なのに、なぜうちの家の人が受け取ったという証拠になり得るのだろう?」

ということで、両親を筆頭に「ハンコというものは何のためにあるのか?」ということを大人の人に聞いて回りました。

すると「厳密に言うと印鑑登録されているハンコと印鑑証明の書類があったら証拠になるだろうけど、認め印がなぜ通用しているのかわからない」というような感じの答えばかりが来ました。

そのとき印鑑登録というものがどういうものなのかをはっきりとはわかっていませんでしたが、ひとまず役所に登録されているものなので、「その人が持っているハンコ」ということにはなるだろう、ということを思いました。

でも僕はさらに深く深く考えました。

「たとえ登録されているハンコであっても、登録の時自体に他人が出ていくこともできるわけだし、印鑑証明があっても、その証明とその人自身が一致しているかどうかは示されていないじゃないか」

というようなことを考えました。その上でさらに100均や文房具屋さんで売っているような「認め印」など誰でも買えるわけですし、そのハンコをつくことが何の意味を持つのだろうということを思いました。

「わけがわからん」

とにかくわけがわかりませんでした。まあ今でも「本当にそんな感じでいいのか?」とは思っていますが、問題が生じたときが問題なのだという感じで思ってやり過ごしています。

で、少し諸行無常に通じるような事柄になりますが、ふと買い物の事が頭に浮かびました。

例えば、代金を支払ったとして、そのお金を店員さんがレジにしまうとします。で、瞬きしている間などもあるので、ふとした間があったとして、その後に「〇〇円になります」と言われた場合、どう対抗すればいいのかがわかりませんでした。

自分の中では既に支払っているはずですが、相手は受け取っていないと言ってきたとします。

でもその瞬間を切り取って考えれば、僕が「支払ったという証拠」はどこにもありません。まだレシートももらっていなければなおさらです。

で、確かに支払ったということを力説しても相手が受け取っていないと言えば、僕は支払ったことを証明できません。例えばコンビニなど防犯カメラがある場合でも、証拠である映像は相手の管理下にあります。

「え?どうしたらいいのだろう?」

そうして、いろいろな意味で「証拠」というものがわからなくなり、急に不安になった僕は数日間コンビニにすら買い物にいけなくなりました。

「どうやって支払ったことを証明すればいいんだ?」

その問いが頭をぐるぐる回りました。

もちろんこれは哲学的でかなりミクロ的な話であり、「お金を払ったらレシートをもらえるだろう」とかそういう話ではなく、1秒位の間に起こる出来事での証拠の話です。

この時は、自分がお金を払う側で考えましたが、もちろん逆の場合も考えられます。品物を既に渡しているのに「もらっていない」と言われた場合です。

瞬間ごとの現象として考えると、厳密な意味での証拠とかそういうものはどういう感じで成り立っているのだろうということをぐるぐるぐるぐる考えていました。

「食べてません」と主張した大学生

そう言えば、大学時代の英語の先生が昔講義中にあった問答を聞かせてくれたことがありました。

講義中に唐揚げを食べている学生がいて、その先生は「講義中に食べるのはやめなさい」と注意したそうです。

すると、その学生は先生が注意している間に唐揚げを食べきって、その上で「食べてません」と言い返してきたそうです。

確かにもう証拠物としての唐揚げはありません。

そして食べたという事実は既に過去のものとなり、今現実には起こっていない現象として考えることができます。

「今食べていただろう」

と返したそうですが、「どこに証拠があるんですか?」と言い返してきたそうです。

先生は呆れて、そのまま講義の方に戻ったそうです。

なお、その後単位を与えないということで仕返しをしたそうです。

文句を言ってきたら「君が出席したという証拠はない」と返すつもりだったそうです。

そんな話などを聞いていると、「社会はどうやって成り立っているんだろう」とばかり思ってきました。

「そうなると何事も証拠にはなりえず、厳密に示すことなんてどうやってもできないじゃないか…」

そんな感じで社会と関わるのが怖くなってきました。

例えば働きに行ったとしても「『本当に働いた』という証拠を出せ」と言われたらどうしよう、というような感じです。

それはその時間その場所にいて拘束されていたということにしてもそうですし、「それでは仕事をしたとは言えない」などと仕事の定義を持ち出してこられたらどうしよう、というような具合で、ありとあらゆる定義と厳密な証拠の面で何がどうなっているのかさっぱりわかりませんでした。

例えばタイムカードという証拠は会社の中にあるわけで、それを管理しているのは相手ですし、それにそのタイムカードの記載内容をもって「確かにそこにいた」ということを厳密に示すことはできません。なぜなら、他人もそのカードを操作できるからです。自分が使っていたものは破棄され、同じものが再発行されて改ざんされるということも可能性の面では可能であるため、それも確実ではありません。根本的にその記載内容が確実であるかどうかというところや、タイムカード自体が決定的で確実なものとして扱われるかどうかというところも保証されているわけではありません。

さらに人に証言してもらうといっても、その人への信頼性もあれば、その人の発言は証拠にならないと言われたら終わりだとか、そのような具合で、何をどうすれば確実に証拠として成り立つのかがわからなくなり、「いざという時に相手に全てをコントロールされてしまうのではないか」という恐怖で一杯になりました。

仮に確実で揺るぎない形での証明はできなくても、ある程度の蓋然性の高さで良しとしてくれるとしても、どこからがその合格ラインなのかがわからなくなり、そうした「あいまい性」に苛立ちといった怒りを持ちました。もちろんそれは恐怖の裏返しであり、論理の罠にハマったような感じでした。

「どうすれば100%確実に胸を張ることができるのか?」と言うような感じです。

そのような感じで混乱し続けたまま、しばらくの間社会と接するのが嫌になりました。

言語があいまいさに拍車をかける

そんな中、さらに論理的な面だけでなく人と人との関係性の中で両者の意志を橋渡しする言語というものも僕に追い打ちをかけました。

目の前の行為ですら証拠云々になると確実性が曖昧なのに、言語はその属性・構造としてかなりのあいまいさを持っているという辟易です。

まずそれを与えたのはソシュールでした。

混乱を加速させたソシュール

言語学の分野で有名なフェルディナン・ド・ソシュールが示した概念で「ランガージュ(言語)の中にはラングとパロールという2つの側面がある」というものがあります。それは記号としての言語とその人が意味付けをしている言語の意味、その人が使う場合のその言葉というような分類です。

よく使う例えですが、「愛」という言葉が用いられる時、人によってかなり意味合いが違ってきたりします。さらに同じ人でも文脈によって言語の意味も変わってくるのでさらに曖昧になってきます。

「いっそ数学的記号だけの世界になれ」

ということすら思ってしまうほどの混乱を招きました。

言葉など「曖昧な印象同士を何とか結びつけて何とか印象を作る」という程度のものなのだということに気付いた僕は、「それならばどうやって社会の中で約束事が成り立つんだ!」ということを思いました。

サンジャヤ並みの懐疑

そうなってくると頭の中は六師外道の一人でサーリプッタとモッガラーナがかつて師事していた懐疑論者「サンジャヤ・ベーラッティプッタ」のようになってきます。

「どうせ曖昧なら何も示しえない、だからすべてを信じないし、議論しても無駄だし、約束しても約束は成り立たないし、何も信用できないし、することはできない」

というような感じです。

そうなってくると完全に社会不適合者です。

社会に適合しているからいいとか悪いとかいうわけではありませんが、蓋然性や社会との折り合いが発端で始まった思考の先が「自分が今生きていることすら何なのかわからないし、わかるはずもない」というような感じで、完全なるややこしい懐疑論者のようになりました。

ソクラテスなどくたばってしまえ!

そんな感じでソクラテスなんかを読み返してみると、「無知の知」などといって「あなたは何も知らないことを知ったのだ!」というようなこと言っていたとして「で、それが何なんだ?」ということばかりを思い浮かべるようになりました。

「何も知らないことを知った、だから何なんだ?」ということです。

まあそれはそれ自体でいいですが、当然に怒りだけがやってきました。

「無知の知」による迷宮からの脱出

沈黙してる場合かウィトゲンシュタイン!

「語り得ぬことは沈黙せねばならない」という言葉で有名なウィトゲンシュタインですが、「沈黙してる場合かウィトゲンシュタイン!」という叫びのような感じの日々が続きました。

語り得ぬことは沈黙せねばならないというのはわかりますが、ソクラテス同様「で、どうすればいいんだ?」という感じになってしまいます。

もちろん論理哲学論考は「どう生きるか」ということを書いたようなものではないので、ソクラテスと同じようにそれはそれでいいのですが、「今現実に目の前で起こることに対して、僕はどうすればいいのか?」ということに対するヒントくらいはあってもいいのに、というようながっかり感がありました。

適当なことを言うな!

まあそんな中でも社会の中で生きてはいるので、必然的に社会的な接触はあるわけです。

そんな中、一応いろいろな人に聞いて回りましたが、友人たちからは「難しいこと考えてるなぁ」と爆笑され、大人の人にも「適当でええやん」「そんなん気にしたら山ごもりしかないやん」と言われたりしました。

「適当なことを言うな!」というのが本音です。

僕の中では、今後「社会の中で生きていくのかどうか」ということに関わるほど重要な問題でした。

適当な人に適当なことを約束されて、約束が簡単に破られたりしても言い返せない、その状況を動かすことができないとなると、何もやらないほうがマシではないかと言うような感じです。

でもそれでも生きていく上では、誰かと関わり、時に働いたり物を買ったりして「生活」をしなければなりません。

で、その生活を営む上では「自分の中では正当にやったつもりでも裏切られる可能性があり、そうした時に対抗するための『厳密な』手段がない」ということは、ある意味死活問題です。

そのような感じで「蓋然性」というものと「あいまいさ」が暫くの間耐え難き苦しみとしてのしかかっていたという感じです。

ある程度の蓋然性の高さ

そのような感じで「厳密で確実なもの」というのは期待ができないという感じになりましたが、それでもとにかくはどの程度の蓋然性ならば良いのかとか「あいまいさ」がある中でも、どのようにやりくりしていけばいいのか、ということをひとまず何とか知りたい、納得したいと思いました。

ということで、僕はひたすらに法学を勉強することになります。

その動機は、弁護士になりたいとか、裁判官になりたいとか、検事になりたいとか、高級官僚になりたいとか、法律学者になりたいといったものではありません。

混乱に混乱を重ねた「蓋然性とあいまいさ」という問題に対して、何かしらの社会的な回答を求めてという感じです。

社会との整合をもたらした法学・法律学

法律を勉強しだした僕はひたすらに面倒くさい学生だったと思います。事あるごとに話の途中で質問を繰り返すような感じだったからです。

そんな中、法学・法律学を学んでまず最初に安心したのが、先生たちがきちんと蓋然性の説明をしてくれたことでした。

「なぜどこでも買える認め印が証拠になるのでしょうか?」

「まあ、何の意図もなく他人がそんな物をわざわざ用意しないだろうという推測から、裁判官が証拠として判断するという可能性があるだけであって、何かの裏がありそうならそれは証拠として認められなかったりするよ」

といった感じです。

刑法においても「いくら証拠を出したところで、厳密に言えばそれは偽造されたものである可能性を完全に無くすことはできません。だから真実は神のみぞ知るということになります」ということを話してくれました。

「究極的には防犯カメラの映像を加工することもできると思いますが、『加工したことがばれない程度に精巧なものをこの短時間で用意するのはおそらく無理だろう』という蓋然性の高さが証拠としての力を持ちます」

といった感じで「社会の中ではどうなのか?」ということへの疑問をなんとなく解決してくれた感じでした。

なんだかホッとしました。

そのような中、何かしら問題が起こった時に、「その確からしさ」がどの程度力を発揮するかが問題だ、という発想を知ることになりました。仲裁を国家に委ねる場合にどの程度力を発揮するかという感じです。

私的自治の原則 お互いが納得していれば問題は起こらない

まあ初歩中の初歩になりますが、民法などでは「私的自治の原則」という発想があります。

私人間のやりとりにおいては、基本的に何事も「法律で決まっているから」ではなくて、お互いが納得していればそれでよくて、問題が起こった時に法律に照らし合わせて解決を目指すという感じです。

書留のハンコの問題も「お互いが納得していれば問題は起こらない」という感じで、郵便が届いたかどうかとか、受け取ったかどうかということでトラブルになった時に問題となるだけであって、何事もなければ、何事も起こらないという感じになります。

問題が起こった時に蓋然性の高さが要となる

例えば、家の前に誰か見ず知らずの他人がいて、自分の名前のハンコを押して書留を盗んだとしましょう。

その時、郵便局側は認め印の押印をもって「確かに配った」ということを証拠として使えるのでしょうか?

郵便が盗まれた時にその認め印の配達証をもって反論することはできるのでしょうか?

そのハンコが確かにその家の人のものということを示す能力としてはかなり低いと言わざるを得ません。

仮にそうした場合の押印が印鑑登録されているものであったとしても蓋然性が高まるだけで、厳密には確実な証拠とにはなりません。印鑑証明を添えて登録印を押した場合なら「確かにその家の人が押したのだろう」という蓋然性は高まりますが、厳密に言うとそれすら盗まれたものだったりするという可能性は残っています。

しかし、そのためには登録印を偽造するか盗むかしなくてはなりませんし、時に印鑑証明書を発行するということまでやらねばなりません。そんな感じで「そこまでやるのはハードル高いよ」という感じになればなるほど蓋然性は高まっていって、証拠としての力が強くなっていくという感じになります。

ただ、一般的には認め印であり、郵便を受け取るのに印鑑証明書まで必要だというようなことは言われたりはしません。その理由としては、簡略化と再発行可能という属性を持ち、しかもそれほど手間やお金がかからないという感じになっているからということになるでしょう。

郵便に限らず、社会の中では「届いていないのなら再発行します」という感じで代替物を用意することができたりします。

ということなので、認め印というあいまいさ極まりない証拠をもってわざわざ「ハンコという証拠があるんですよ」などといいながら、送り主や郵便局が突っぱねてくるということはないでしょう。その手の郵便物には保険もついていますしね。

そういうわけで、日常は「相手がキレてこない」レベルであいまいにやりとりすればそれでいいという感じになります。トラブルになるとエネルギーを無駄に使うので、それを避けるためにだいたいのことは適当にやりとりされています。

ただ、事が大きくなると「詐欺師」や「策士」などが高飛びやトラブル覚悟で仕掛けてくる場合があるので、そういうときには予防策を張りながら、蓋然性の高い証拠をたくさん用意しておくという感じでいいでしょう。

そんな感じで何となく気楽になりました。

形而上学と社会の切り分け

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く」においても、哲学的自由意志と社会学的自由意志を切り分けて考えたりしています。

まあ自由意志の面で言えば、「この意志」は他から形成されたものであるため、自分が生み出したものではないというのが哲学的自由意志であり、その存在のようなものは否定せざるを得ません。

しかしそうなると各人の意志自体が本人のものではないため、社会においても「本人に責任はない」ということになって、誰も責任を負うことはできないということになれば、社会的には混乱を招いてしまいます。被害者救済や犯罪の抑制といった秩序が保たれなくなるという感じです。だから社会においては「複数の選択肢があり、他から制限されていない状況で決めたこと」を自由意志としてみなしておきましょう、という感じで折り合いをつけている感じです。

そのような感じで、厳密な論理や証拠と社会的な蓋然性の問題は、形而上学と社会の切り分けをする形で折り合いがつきました。

どこまでもついてくる蓋然性とあいまいさ

さて今回「蓋然性」と「あいまいさ」について思い出したりしたのには少しばかりきっかけがあります。

それは先日ドラマ版闇金ウシジマくんを観ている時に思い出したという感じです。

何の気なしに観ていると「闇金狩り」を企てるグループが、同級生の名前で運転免許証を作るという感じの設定の回がありました。

昔から不思議だったのですが、顔つきの身分証明書である運転免許証を初めてもらうとき「住民票」が必要になるものの、その住民票をもらうのに「顔つきの身分証明書」は必要ないというような構造があります(今ではもう少し本人確認はうるさいのかもしれません)。

それで、同級生の名義で原付免許か何かを取りに行って免許証を作り、それを身分証明書として闇金からお金を借りて飛ぶというような感じのストーリーでした。

それを観て「証拠って何だ?」ということに悶々としていた頃を思い出したという感じです。

これすらも蓋然性

ということで蓋然性とあいまいさについて触れてみましたが、「僕が当時本当にそのようなことを考えていたのか?」とか「本当に熱心に法学を勉強したのか?」とか「本当に闇金ウシジマくんで思い出したのか?」ということは、本文の中から垣間見れる証拠のような記述から「蓋然性の高さ」をもって推測してもらうしかありません。

だから何事も確実なものではなくて、どこまでも確実性は100%の確実とはなりえず、あいまいさを持ちます。そして、その中から各々の方が「何かしらの印象」を形成する程度という感じです。

言語で示し得ることはその程度だという感じになりますが、「言語で示し得ることはその程度だ」ということも言語の中からあいまいに印象を得るしかないという感じです。

そういうわけで、何事も盲信せず、自らを拠り所としてください。

Category:philosophy 哲学

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