英雄崇拝とその狂信者

彼は、自分とその同類が虐待されるのを我慢し、悲惨の全体を、新しい種類の自己欺瞞とお上品な嘘によって、神のさらに大きな栄光のためにさえなるように解釈するのである。彼は自己に敵対し、虐待される者として、その際殉教のようなものを感じる。― こうして彼はその自惚れの絶頂に至る。― この種の人間は、たとえばナポレオンの回りにいた。否、おそらくナポレオンこそ、「天才」と「英雄」に対する浪漫主義的な―啓蒙主義の精神から疎遠な―屈従を、われわれの世紀の魂に与えた人であったろう。 曙光 298 後半一部抜粋

「英雄崇拝とその狂信者」というものはまさに現代でもB層戦略として多用される概念です。特に政治などだけでなくとも、何かヒーローを仕立てあげてそれに狂信する。それは新興宗教のようなものです。

英雄崇拝は対象が英雄なのかもしれませんが、何かを崇拝するということ自体が「カルト」です。そして崇拝には狂信がつきものです。

英雄ならば「ひでお」と読んでしまえば、いいのです。いやいやそういうわけではありません。

英雄崇拝と象徴としての英雄

ヒーロー・アイドルを仕立てあげて崇拝し、殉教することに自惚れる、弱者の怨恨であるルサンチマンの表れです。「象徴としての英雄」として誰かすごそうな人や団体と同化し、その人の意志のようなものに適うことが正しいとする解釈変更です。

そうした崇拝やルサンチマンの踏み台は、ヒーローやアイドルだけではありません。愛社精神も含まれます。

狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。

狂信が望まれる場合 曙光 222

こうした狂信は、まさに生贄の道徳であり、犠牲を美徳とする自惚れでしょう。そこには確実に自己欺瞞があります。「本当に本気で信奉するのか」ということには1%位は疑いがあるはずです。

殉教という性欲動

殉教は美しいかのように見えます。しかし、何か主義や思想のために死んだりすることの何がいいのでしょうか。

同じように、あるアイドルのために、痛みを美徳とするのはただの自惚れ以外の何物なのでしょうか。

自惚れ欲しさに「英雄崇拝の対象に貢いでいるだけ」という構造になっています。

しかしながら、一番の殉教者は、そのヒーローです。歴史に名を刻みたい、何か遣り残したいという、自らの情報をこの世に残したいという本能的な衝動に対して、必死で対応しています。

「オレはやったったど!」

というようなことですが、やらなくてもいいのに、○玉に支配されるかのごとく、「遺伝子を残せ」ならぬ「おまえという情報をこの世に残せ」という衝動に駆り立てられていただけ、たったそれだけのことです。

そしてその○玉の衝動かのような、他人の本能的な行動を「応援している」などと同調し、陶酔し、自惚れることはまさに、妄想や他人の本番行為の記録を見て気持ちよくなる自慰行為と同じなのだということです。

狂信者への対応

崇拝には狂信がつきものです。SNSなどで、候補者などを支援しつつ、聞かれてもいないのに「私はこの人を支持します」や「私も同じ考えです」と投稿する人がいたら、「あ、オナニーの人だ」と思っておきましょう。特になぜ同じ考えなのか、ということを書かずにただ単に雰囲気的に気分で言っている場合ですね。

そんな人達の性欲動に付き合う必要はどこにもありません。

試しに「なんで?」と聞いてみてください。

一回ではなく、納得行くまで何度でも。定義が曖昧ならば、「どういう意味で言ってる?」などと聞いても構いません。

相手が諦めるか発狂するまで聞いても構いません。

所詮、人が持っている主義や主張など、その程度のものなのだということがわかるでしょう。

英雄崇拝とその狂信者 曙光 298

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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