自己検閲の機構

どうしても自我というものは悪者扱いされるフシがありますが、「それはそれ」というだけのものであり、退治する対象のものというわけではありません。

凝り固まった自我意識というものは、制限を生み、偏見を生み、悪どくなってしまうものとして扱われたりもしますが、こうした自我は時に自己検閲の機構として、逆に洗脳・マインドコントロールをブロックするものとして働いたりもするわけです。

万が一の誤解があるといけないので、改めてこうした「自己検閲の機構としての自我」について触れておこうと思います。

定義が曖昧な自我

というのも、「じろりと白眼をむいて」で触れていましたが、Toshlさんの洗脳騒動に関する著書を読んでふと思ったからです。

先日読んだ、Toshlさんの「洗脳 地獄の12年からの生還」における洗脳の過程において、「自我の強い宇宙的犯罪者」というような表現がなされており、一方で「自我の薄いものがお金を使うことは地球に貢献する」というような暴論が繰り広げられていたということを受けて誤解なきようにという感じです。

ああいうカルト宗教的な人たちもよく自我という言葉を用いますが、都合よく使っているだけで、自我の定義自体が曖昧だったりもします。

自我に関するカルトの論調

あの手のカルト系の人たちが自我という言葉を使う時、自我=エゴ=自己中心的=悪人という感じで紐付けていったりしています。

しかし、どの尺度から自我というものを定義するかによって、表現は異なってくるものの、基本的には、「幾多の情報からこの意識として形成された集合」という感じですし、自我の視点ということになると、仮観という前提の中の「個における自己保存の目線」という感じになるでしょう。

そういうわけなので、彼らカルトの論調に合わせたとしても、「自我が強い」ということは、「自己保存の意図が強い」という程度だったりします。端的には、自己保存において余裕がなく、他を踏み台にしてでもという感じになります。

が、そうした構造の中から苦しみを無くしていくという方向については、彼らの言うようなカルマ的な発想は妄想の産物であり、まったくもって誤謬です。

「自己保存の意図が強いと苦しいですよ」というのはいいですが、だからといって「そこからどうすればいいのか?」という点で、カルト側にお金を渡すというのは、全く辻褄が合いません。

自我への執著が無駄な苦しみを起こす

本来、ひとつの見方としては、自我は自我でただそれだけのものという感じで捉えるのが良いでしょう。

いわば分離であり、個の意識であり、自己保存を意図するということにはなりますが、基本的にはこの自我を通じて世界を捉えることになるので、自我がまず自己保存を意図するのは当然であり、尿意が起こればそれに伴う行動を意図して、実行するというのは当然です。

自我自体が悪いと言うよりも、自我への執著が無駄な苦しみを起こすという感じになります。

そんな中、どうしてカルト系は相手のためと言いながら目線が社会的なのでしょうか。

個を犠牲にさせて、一旦社会という集合に集めて、自分たちを優先して分配するというような構造になっているのでしょうか。

それこそが、自我意識であり、「いかに楽をするか?」ということの合理性を元に検討された自己保存の意識です。

なので矛盾があります。

例えば、原始仏教的に捉えた場合、五戒を中心とした戒めは、社会的ルールというわけではありません。そしてそこから外れてしまったとしても、周りの人がとやかくいう対象ではなく、あくまで「この心が苦しみを得てしまいますよ」という感じになっています。

破ったからといって、「出直してきなさい」ということはあっても、金銭を含めた社会的な賠償を求められるということはありません。

自己検閲の機構としての自我

さて、自我は自己検閲の機構でもあります。

つまり、それを受け入れるのかどうかということを検閲する機能を持っているということになります。

なので、洗脳においてはそうしたブロック、検閲機能を破壊するところから始まります。

わかりやすい例で言えば、自分が元気で気力体力ともに余裕があれば、お断りするということもできますが、あまりに疲れていたり、怖かったりしてその状況から逃れたいという時、「まあそれくらいだったらいいわ」と許容してしまうことがあると思います。

「疲れていて考えたくない」という感じに似ています。

営業マンのすっぽん営業も近いような要素があります。

自己保存を意図する検閲という感じで言えば、生理レベルからそれが起こっています。

「このままこの場所にいると体が冷えて風邪をひいて苦しくなる」

というのも自己保存を意図しています。

それの何がいけないのでしょうか?

「喉が渇いたが、この腐った水を飲むと腹が下ってしまう」という判断の何がいけないのでしょうか?

自我の強さを克服するためにすべての人を受け入れるということで、詐欺師の言うことを鵜呑みにしていいのでしょうか?

そんなわけはありません。

なので、自我を敵視せず、自我に抵抗せずにいるほうがまともです。

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