凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない

僕はなんだかんだで統計・データの分析が得意な方です。でないと会社経営もあまりうまくいきませんし、トレードなんかで勝てるわけがありません。でもそうしたものは参考程度にしています。

データには精度というものもありますし、何某かの意図が組み込まれている場合もよくありますからね。そして何より市場も人の心理も環境も常に動いており、あくまで統計・データはある時点、ある状態の切り取りにしか過ぎず、結論も単なる「要請」くらいにしかすぎないからです。

データに騙されてしまう人はよくいます。しかしそれは、そんな人達をバカにした人たちが、わざわざ騙すためにデータを根拠にしているというだけだったりします。

「凡人が天才のフリをする時」にデータを根拠にします。因果関係と相関関係をごっちゃにしていたり、根本的な統計の取り方の時点で様々な作為を忍ばせていたり、結論付ける時にデータを操作したりしているのです。

凡人が天才のフリをする時こそデータを多用する

少し考えていただきたいのですが、心理学の分野でも何十年も前の外国の大学生100人程度への実験から導き出された「傾向」くらいしか根拠として使っていません。

幾世代にも渡り、かつ、エリアも対象年齢もすべてランダムであればまだ信憑性が高まりますが、所詮その程度のことを「根拠」かのように装っているのです。

しかし、それくらいしか「根拠」として、「データ」として何か裏付けになるようなものを差し出せないからこそといったところです。

ある程度の玄人なら言われなくてもわかっているようなことを「誰にでも示せるような形」にしようと思うとそれくらいが限界だということです。

そんな中「数十年前の実験のデータは本当なのだろうか?環境の変化が傾向に変化をもたらしたりはしていないか?」と考える人もいていいと思いますが、再実験がなされることはほとんどありません。

といっても元の実験を行った人たちは「うーん…こんな事を考えてみたんだが、みんなを納得させるにはどうしたらいいのかなぁ…」と、一応自力で考え、自力で実験を実行しています。だからまだマシです。

マスメディアなどに出ている自称天才の学者は、さらにその程度のデータを根拠に「私は知っている」と自惚れているのです。まさに凡人が天才のフリをしているといったところでしょう。

アンケートによって承認欲求を満たしながら
マインドコントロールを行う

さらに面白いのが、「人の意見を聞いている」という装いの元マインドコントロールを行うということもあるということです。

アンケート調査などがわかりやすいですが、「このグラフを見てどう思いますか?」などと言いながら「これが常識なんですよ」ということを刷り込んでいくという方法です。

そう言えば以前出会った大学生が、こうした分野、「アンケートを用いることによる被験者の行動変容」について専攻しているということで、いろいろ詳しく話を聞かせてくれたことがあります。いわゆる行動変容ステージモデルの研究です。行動変容ステージには「無関心期」、「関心期」、「準備期」、「実行期」、「維持期」といったステージがありますが、その大学生の場合は「アンケートで常識を刷り込んでいくこと」を専攻しているといった感じです。

そのような感じで、「統計のためにアンケートをお願いします」などといいながら、「これが常識なんですよ。あなたにも教えてあげますね」とマインドコントロールを行っているわけです。

その上で、次は当の統計データを用いてまたマインドコントロールを行っていくのです。

「刷り込まれている」という抵抗がないため、世論を扇動したり、消費欲を刺激するには通常の説得よりも理にかなっています。

データの取り方で結論は何とでもなる

そう言えば以前、観光知名度ランキング的なものについて触れたことがありましたが、あれもサンプルを特定エリアや特定の年齢層に絞り込むことによっていくらでも恣意的に結果を操作することができます。

まず「アンケートに答える」という行動を起こす層が限定的です。調査自体が層の絞り込みを行っているという要素があります。特に問題なのはサンプルが「謝礼がもらえるならば調査に協力しよう」という層だった場合です。

データのごまかし方はいろいろありますが、サンプル、調査中の作為(質問の仕方や選択肢の表現)、結論の歪曲、結論を導き出す時のフレーム(視点)の選択、グラフの描画の操作、などが代表的なものになるでしょう。

胡散臭いネット広告などでは「47%が実感!」などと書いてあったりします。そうした数字はほとんど意味のない数字だと思っておきましょう。

データ・統計を根拠にされたら

人から何かを説得される時、データ・統計を根拠にされるときもあるでしょう。

「アメリカの実験で分かった」「最新の研究で実証された」

というような常套句がありますし、「87%」などと具体的な数値を出して説得してくる「天才のフリをした凡人」がたくさんいます。

しかし、そんなときは「ふーん。はいはい」とだけ思っておきましょう。

「ごく限定的な調査での結果なだけでしょ?」

と思っておきましょう。

占いなんかでも「統計学です」なんてな説明をされたりするそうですが、「何千年も前の中国人のデータでしょ?」といった感じで軽くあしらいましょう。

「それはそうなのかもしれませんが、私はすべての因果を脱した者、すべての業を脱した者ですので関係ありません」

とでも言っておきましょう。

何より、因果関係は一つの原因だけで成り立っているのではありません。

「それがどうした。私には関係がない」

そう思っておきましょう。

たった一つの原因だけで結果が生じるわけではありませんし、統計など「傾向」にしかすぎず、仮に精度の高いものであってもほとんどは相関関係を示しているにしか過ぎないのですから。

そして、統計やデータはある時点でのものにしか過ぎません。統計やデータをが様々な人に参照されていくに従い、人々の考えに変化が起こるため、それが公に公開される前と後では数値自体も変わってしまうのです。

自分の中の仮説作りにだけ使用する

トレードの際のチャートの動きは、「事実としての情報」ですし、ファンダメンタル部分に関しても公に公開されているデータとしては一応精度の高いものになっています(そこには載らない何かを隠しているかもしれませんが)。

しかしながら、人の意見を集めたような「統計」など何のあてにもなりません。

一応そうした統計を用いて人を説得することにも使えますが、僕のような人を相手にした場合に「天才のフリをした凡人が、僕を騙すために意味不明なデータを根拠にしだしたぞ(笑)」と思われてしまいます。

ということで、データ・統計がもし使えるとすれば、自分の中の仮説作りにだけ使用するという場合くらいです。

ある方向性を決める時に参考程度にしてもよいという程度ですが、そうした場合でも「相手の都合」というものをよくよく洞察してから参照すると騙されることが無くなっていきます。

相手は何某かの都合があってそのデータを持って説得をしてきているというところを深読みしてみましょう。

相手は何の目的でそのデータを表に出しているのか、どういった意図を持って統計を取ったのか、調査や実験にかかったお金は誰が出したのか、体育会系要素があるならば上にいるのは誰か、行動の動機の元となったエピソードなどはないか、ライバル関係などを含めて周りの環境はどうか、などなどです。

もちろんそれも推論にしか過ぎませんが「騙されないこと」を目的とするならばそれでも十分なのです。相手も「データ」や「統計」という言葉を用いているものの所詮推論で話しをしているのですから。

すなわち、人が説いたような話は、どんな根拠を持ってきたとしても、自分が必ず再現できるようなものでない限り、あくまで「何某かの限定がなされた上でのひとつの結果(それも恣意的な操作があるリスクを含んでいます)」であり、それを根拠とした「要請」にしかすぎないということです。

世の中では様々な人が様々な仕掛けをして、またある人々はそれに触発されていろいろな都合を検討しながらまた何かの意図をもって仕掛けを行うというように、意図は波及していきます。

自ら仮説作りをする際には、そうした仕掛けに直接反応するのではなく、「世の中の人はその仕掛けにこれくらいは反応していて、あとこれくらい経つと飽きてくるだろう」などという予測を立てるというくらいでちょうどいい感じになります。

自分が反応するのではありません。

それが自分の職場や学校などというかなり限定的な集合体なのか、自分の住んでいるエリアという集合体なのか、日本という社会全体なのか、世界中のなのかというのは作る仮説によってバラバラだと思いますが、反応しているであろう他人の状態を予測することくらいでちょうどいいという感じです。

ある視点から一点だけ切り取っても本質はわからない

広告などでありがちですが、「97%が使用」などという言葉を使う場合にも注意が必要です。

例えば「弁護士試験に受かった人の97%が使用したテキスト」という謳い文句があったとしましょう。

一般的にそうした試験を受ける人はひとつの本だけを頼りにするわけではありません。というより出題範囲や問題の深さを考えれば、ある仔細な科目一つについてであっても使用していたテキストが一つだけということは通常ありえません。

ということはたくさんのテキストを使用しているはずです。たくさん使用するうちの一つに焦点を絞って「97%が使用」などと言われても、そのテキストが合格に対してどれほど寄与したのかはわかりません。

テキストの販売実績というデータというものが事実として差し出されることになると思いますが、販売数と実際の使用は別ですし(買って放置というケースもあります)、どれくらいの重要性をもって頻繁に参照されていたかというところも問題になります。

また、その数字をもって「優れたものである」と主張するのであれば、「試験に落ちた人が使用していた率」もカウントしていかねばなりません。そしてそうした数字はサンプル数によって精度が大きく異なります。それらをしっかりと明示してこそ検討の対象となっていきます。

しかしそれすら推論・推測の域を出ません。

少なくともある視点から一点だけ切り取っても本質はわからないということです。

数字の裏側

また例えば、営業実績とか売上実績のようなものがあったとしましょう。

「すごくよく売れています(当社他製品との比較)」などという感じで書いてあったとして、その売上数の実績などは本当といえば本当なのかもしれません。

当社他製品との比較の上で、というところで「自作自演やん」とも思えますが、一応事実なのでしょう。

しかしその事実は自然な流れで起こったものではないかもしれません。

その製品が新製品だったとして、その製品の発案者が「社長の息子」や「社長の娘」だったりして、「案を出したことを失敗にしたくない」とか「次期社長にする前に実力があることを実績として作りたい」とかそういった裏の意図がある場合もあるのです。

ということで、売上実績は売上実績ですが、従業員に自爆を強要しているだけだったり(自社製品を自分で買うというやつです)、通常商品よりもプロモーション費用をかけていたり、「この商品を売るためだったら残業していいぞ」とか「この商品の売上に応じて臨時ボーナスを出すぞ」などとという異例の扱いがなされていたりするのです。

結論が短絡的で、かつ、意味をなさない

後よく思うのですが、ギャンブル依存症などの人は「親に褒められずに育った人が多い」という感じのことを言う人がいます。

確かに病院にやってくるような人を調べていくとそのような結果になるのかもしれませんが、「それがどうしたんですか?」ということを思ってしまいます。

ちなみに僕も特に褒められずに育っていますが「ギャンブルに依存するどころか…」といった感じに成長しました。

「ギャンブル依存症の人は親に褒められずに育った人が多い、だから褒めてあげよう」

というような短絡的な結論を導き出す人たちもたくさんいます。

そしてそこから「幼少期に褒めて育てることで大人になってからのギャンブル依存症リスクを下げることができる」

という結論まで出しそうな勢いです。

ただ、僕の感覚では、褒められて育った人は承認依存型になります。人から褒めてもらえないと苦しくて、「褒められること、認められること」に依存するような人になってしまうリスクが出てきます。結果、夜の街に通いつめたりするのではないでしょうか。そして、ハマりにハマって「褒めてもらうため」とあらば横領までしてしまうような人になるリスクだってあります。

単純に「幼少期にあまり褒められずに育った人」は、他人からの褒めに依存しないので「何によって自分自身を確認し自尊心を保つか」というところを自分で見つけることになります(本当はそんなものは虚像であり不必要なのですが)。

だから、その対象が仕事になれば仕事に打ち込んでしまうようになるという感じになるでしょう。ギャンブル依存症の人はそれがギャンブルだったと言うだけです。「どんな時にドーパミンがよく出るか」ということで説明する人もいますが、それならばなおさらです。

で、だからといって「それがどうした?」ということです。過去にさかのぼって過去を弄るということができるのならばそうしてもらえばいいですが、親との関係など過去に遡ってどうこうできるようなことではありません。

「次にはこうなってしまう」という領域を出る

ということで、「親に褒められずに育った人が多いということが何なんですか?」という感じです。

「多い」というだけで、目の前の人はそれに当てはまらないかもしれません。

そうなると「統計上そうした人が多い」というものは、何の意味もなさないようなデータです。

そんなところから推論などしなくても、全ては「今の心の状態」が原因となって展開していくのですから、過去の事実のようなものにとらわれていないで「今の心の状態」を何とかすればいいのです。

その「今の心の状態」には記憶として、思考パターンの関数としての状態が設定されています。「今の気分」という短絡的なものではなくて、記憶、関数といったすべてを包括した「今の心の状態」です。

人によって経験は様々で、スタート地点はバラバラですが、全てをひっくるめて心をごっそり入れ替えればいいのです。入れ替えると言うよりも飛び越えてしまえばいいのです。

そうした時に統計や確率論の領域から飛び出ることになります。

世のデータや統計が関係ない領域まで一気に行ってしまえばいいのです。

野放しにしていると、ランダム性のある因果律のもと、確率論的に「次にはこうなってしまう」という状態のままです。そうした領域を出る、という感じでいきましょう。


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