笑いと笑うことについて

思い返せば、僕は笑いのスキルを上げることに人生の大半を費やしたような気がします。

様々な世界に「答えはない」というセリフを吐きたがる人がいます。

でも、プロ中のプロは言います。

「答えはある」と。

そしてその答えは簡単なことです。

でも、ガチガチに固まった頭では、その答えを聞いたところで、受け入れられなかったりするでしょう。

素直さが一番大事というのは、本当にそうだと思います。

一般的には素直というのは相手の言うことを聞くというふうに捉えられがちですが、物事を先入観なしに捉えてみるというような意味です。

詳しくは松下幸之助さんにでも聞いてください。

面白いことを考えることと、言うことすることは生きていく上で非常に重要な要素です。

もちろん笑い以外にも要素はあります。

仕事、趣味を問わず物事を深く研究してる人なんかは、笑いの要素がなくても話を聞いていて面白いです。

いくら高学歴で収入が高くて完璧だと思っていても、それらの重要な要素を忘れていたりします。

別に万人を笑わせる必要はありませんが、自分と、直接目の前にいる人くらいは笑わせられないと厳しくなると思います。

そうでないと、パートナーに離縁を迫られることになります。

実際にたまにききます。

また、自分が面白くないと、ほかのエンターテイメントに頼らなければならなくなります。

そうすると無駄な時間、無駄な費用が発生します。

笑わせる能力がないとモテないので、お金を払って異性と話に行くことになります。

島田紳助さんには様々な賛否がありますが、僕はその道のプロ、そして笑いの研究者として相当のレベルだと思っています。

言うまでもなく松本人志さんもそれに天性の才能を加えた「笑いの象徴」として字のごとくカリスマだと思っています。

昔、島田紳助さんがNSCの方に講義されたときの動画を見せてもらったことがあります。

若い女性はすぐに笑う

別に男女の性差を主張する気はありません。また、レベルの高い女性も確かに存在します。

ただ、若い女性はすぐに笑うのです。

「自分たちが売れている空気を作ってくれるから、こういう客も重要だが、この人たちを笑かしにかかった瞬間、すべてが終わる」

そんなことをおっしゃっていました。

大体、少し声のトーンを高くするとか、大声を出すとか、変な動きでもつければ笑うのです。

小学生レベルです。

少年少女の頃のそういう笑いも大事で大切で、ぎゅっと抱きしめたくなりますが、そういうのはコロコロコミックなどに留めていただきたいですね。

もしくは物事を露骨にいうことくらいでしょうか。

せいぜい誰か身内の悪口を言って盛り上がっている程度です。

民主主義は絶対ではない

笑っている人の数が多ければ、その人の方が面白いのでしょうか。

どうしても義務教育で民主主義を教えられ、多数決の状況を多く経験するので、感覚が麻痺しますが、社会に出ると一人一票は選挙くらいで、ほとんどの事柄は平等ではないことがわかります。

憲法の定めはあくまで国家を縛るためのもので、法律とは性質が違います。

あくまで、国は国民一人ひとりを平等に扱わなければならないだけで、私的な範囲ではそんなことはありません。

ということで、面白さは笑っている人の数に比例しません。

思い出し笑いができるか

その場その場で、空気というものがあります。

仲のいい人たちで集まってどんちゃん騒ぎでもすれば楽しいでしょう。

そこでは腹を抱えて笑ったりします。

でも、その笑いは思い出し笑いの対象ですか?

楽しいことはいいことですが、本当に面白いことなら思い出し笑いができるはずです。

パーティーを盛り上げられることも素晴らしい才能ですが、「面白い」とは少し違う気がします。

本気で面白い人は、そんな盛り上がている場においても輪に入らずに、独りでニタニタ何か考え事をしている人かもしれません。

面白さの中の楽しさ、楽しさの中の面白さ

ただ、楽しいだけがいけないわけではありません。

もちろん素晴らしいことです。

そしてその楽しさの中には何故かそのノリをもう一度自分ひとりの時にでもリピートしたくなったりします。変な面白さが混じっていたりします。

面白さと楽しさは別次元といえば別次元ですが、互いに相乗効果を生み出すものです。

どちらか一方を否定する性質のものではなく、競合はしません。

おもんないグループ

世の中にはおもんないグループと言われるものがあります。

そのトップに君臨する人は、逆に面白かったりするのですが、中間層は絶望的だと思います。そしてその人たちには共通点があります。

それはプライドが高すぎることです。かつ、それは誇りにもできないような面でのプライドだということです。

たとえば陶芸家の方で、非常にプライドを持っていたとしても、それはそれで結構面白かったりします。

単純に自尊心の問題だったりします。

じゃあお前は面白いのか?

そんなことは関係ありません。

よく「プロの選手でもないのにプロを非難するな」ということを言う人が言いますが、それは議論のすり替えです。

誰が何を思おうと考えようと、また、言おうと勝手です。

そんなことではディベートで即負けですよ。

ソースは?

ついでに言うと「ソース(情報源)は?」という人がいます。

ディベートでは、あくまで目の前の資料を根拠に、その範囲で行いますが、それ以外では、公式な論文でもない限り、情報源の正確性など関係ありません。

なぜなら、情報源の正確性は証明できません。

全ての情報源は蓋然性の壁を越えることなどできないからです。

こんなことを聞いてくる人は権威主義なのだろうと思います。

シュールという言葉

言語として表現が難しい、非現実的などと言われますが、それは受け手の語彙や経験、感覚などが浅いせいではないでしょうか。

世間で言う「シュールな笑い」というものも、実はどういう構図かだいたい説明できてしまいます。

非言語の領域でのシュールは存在します。

ただ、それは世間のそれとはレベルが違います。

本当に説明が難しいのは、「おっさん角刈り、刈り上げ」がなぜ面白いのか、というレベルです。

あとはだいたい、テンポ、間、言語表現、あるある、風刺、奇抜さ、真面目と不真面目などなどで説明できてしまいます。

もっとも、その要素自体がなぜ面白いのかは、もっと抽象度が高いため、言語では表現できないかもしれませんね。

組み合わさってこそのハイレベル

あるあるネタのピン芸人の方はもったいないと思います。

たまに5upなどに行くのですが、せっかくのあるあるを、それ単発でやるから勢いが減速してしまいます。

そのまま言ってしまうから低いレベルになってしまうのです。

「ごっつええ感じ」「VISUALBUM」という作品があります。

よく観ていたければ分かることですが、これらの中にはあるあるが相当含まれています。

露骨に分かるものから、わかりにくいですがうまく組み込んでいるものまであります。

映像ではなく舞台の上ですから、表現方法は同様にはいきませんが、その構図をお忘れなく。

職業にしないのなら…でも、それでも!

もちろん職業にしないのなら、そこまで笑いを研究しなくても構いません。

また、面白い人が全員その業界にいっているとは限りません。

歌の上手い人が全員歌手になるわけではありません。

曲が作れて歌をうまく歌えても、音楽業界に入らずに好きな人にだけ曲を書くということも人生の生命表現です。

そのスタイルの選択は、誰にも強制することはできません。

ただ、みんなが腹を抱えて笑える世の中になれば、もっと素晴らしい世界になると思っています。

あるボーカリストは、人生全てに絶望した時にバラエティのおかげで死を思いとどまったそうです。

それくらい笑いには愛とパワーがあります。

くれぐれも笑いを軽く扱わないように暮らしたいですね。

笑いの効果


笑いのポイントについては、原始的で普遍的な部分もありながら、時代によって変化する「社会からの要請」と「両価感情の一方の抑圧のあり方」によって、ジェネレーションギャップが生まれたり、男女で差異があることは致し方ありません。

しかしそれらを統合し高い抽象性を持ちつつも、原始的ではない部分を抽出することが、より笑いとしての文化のレベルの高さを示すものとなり得ます。

ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのか

Category:miscellaneous notes 雑記

「笑いと笑うことについて」への2件のフィードバック

  1. 連投失礼します。ソースは?の所の情報の正確性、権威主義について詳しくお願いできないでしょうか?
    相手と話し合う時に何を根拠にしていけばいいのでしょうか?

  2. 普通の話し合いでは、情報源について聞かれるかもしれませんが、情報の出処、根拠を提示しても、情報の出処は、あくまで「確からしい確率」でしかなく、「こういうところはしっかりしたものを出すだろう」とか、「こういう偽物はなかなか作りにくい」とかいうレベルです。根拠と言われても、その根拠自体の根拠を突き詰めていくとそんなものは存在せず、なんとなくの雰囲気だけになります。

    たとえば、「独立行政法人なんとかセンター」発表のデータだったとしても、一方で、ある結論(何かの必要性を強調して予算を勝ち取るなど)のために捏造しているかもしれません。一方で、捏造がバレた時の危険性を考えて、「そんなことをするとは考えにくい」という面もあります。
    アンケート調査などで、「はい / いいえ」の項目があったとしても、その日の気分で今日はひとまず「はい」ですが、明日には変わっているという場合もあります。
    あくまで、傾向であって、それを根拠に「こうしてみてもいいかもしれない」と推論を立てる材料にする程度にしか使えません。

    根拠の根拠を探っていくと、根拠自身が雰囲気、印象、「たまたまの寄せ集め」だけということに気づかれるかと思います。

    ただ、別にそこまで厳格に根拠を頼りに話をする必要があるのか、というようなことです。

    権威主義についてですが、誰かを説得する際に、「権威」を持ち出してくるのは本当はかなりナンセンスです。
    先の情報の正確性、「おそらく確からしい確率」を上げるために、出典元として、有名な人や組織の名前を使う場合ですが、究極的な論理レベルで言うと全く寄与しません。
    ただ、会話など、所詮雰囲気なのだと思ってしまえば、それは「おそらく確からしい確率」を上げる要素になりえます。
    それはある意味感情に訴えかけているからです。

    例えば、経典に書いてあるということはブッダが語った言葉だから正しい、と言うのは勝手ですが、そもそも、経典自体の正確性、言葉の解釈、そして究極的には「なぜブッダが言えば正しいのか」というようなことを考えていけばわかりやすいかと思います。

    「なんか世間で、すごい人だとか聞くから、多分本当なんだろうなぁ」

    という非常に曖昧なものです。
    雰囲気・印象です。

    聞くこと、読むことは「どうぞご自由に」、という範囲ですが、「なんかすごそうな人が言ってたから、ちょっと考えてみよう」と、自分で感じたり、考えてみるきっかけにとどめる範囲のお話です。

    「誰誰が言ったから本当なのだろう」とか、「誰誰も言っている」とかいうのは、一切「根拠」にはなりません。

    社会は蓋然性、つまり「おそらくそうなんだろう」という範囲で活動していますので、説得する一種の手法としては使えるかもしれません。
    ただ、ともすれば、話がぶつかった時に「こっちの方が権威がある」という非常にナンセンスな話し合いになってしまいますので、はじめから、「根拠として権威を持ち出すこと」は除外する方が賢明だと思います。

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