空気を引き裂く弦の音

あまり街中に行かないので今ではどんな感じになっているのかはわかりませんが、音楽において、特にライブ会場においてある時から劇的に盛り上がることよりも「怪我人を出さないこと」の方が重視され、不完全燃焼感が増してきました。

個人的には、十代の時にダイブして肩から落ちて怪我をしたりもしましたが、自己責任なのでまあいいかぁという面もありつつ、その一瞬は他では代えられないというようなことを思っていたので、誰を責めるわけでもなくという感じでした。

以前はそうした共通認識のほうが大多数であり、それが叶っていたということになりますが、その後「他人に巻き込まれて怪我などしたく無い」という人の方が増えたのか、義務教育的で公務員的な空気感が増して面白みが欠けたような気がします。

しかしながらそうした空間は、一人で作り出せるものではなく、共通認識の上で大勢の人たちで作り上げる空間であるため、同じようなことを思っている人たちが多少なりいたとしても、多勢に無勢で空間自体は生まれません。

また、そうしたリスク回避の影響からか自粛傾向が生まれ、その後に生まれた空間は、やはりリスク回避傾向の不完全燃焼感があるような気がします。

それは怪我などについてだけでなく、人がガラガラだったらどうしよう、盛り上がらなかったらどうしよう的な感じの部分すらあるような雰囲気です。

楽器を演奏する人たちとしては、「空気を引き裂く弦の音」という通り、アンプを通したとしてもその場で作り出した、圧縮されていない音が最も良く、そうした音を通じて名も日常も知らない人たちと空間を共同創造するということを本来は求めていると思います。そんな中、そうした本来求めている世界をひとまず置いておいて、極端に言えばコピー演奏の動画や、動画で楽器の音の解説などをして再生回数を稼いでは、ほくそ笑むような感じに見受けられます。

生のライブ会場ならば少なくとも生音が中心となりますが、一度デジタル変換されたものは臨場感が下がりますし、デジタル化の上で圧縮がかかっていたりするので情報量も下がります。

何より共時的な空間の共同創造ではないという面で、空間の情報量、臨場感が下がるということは説明するまでもなく自明の事実であるはずですが、やはり自粛傾向で逼塞せざるを得ない環境ではそうならざるを得ないのかもしれません。

それは総監視社会の末路の一つの表れ方でもあるのでしょう。

Category:笑う月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ