皮肉骨髄から考える「人の意見」

皮肉骨髄から考える「人の意見」ということで、皮肉の語源となっている達磨大師の「皮肉骨髄」の逸話から、人の意見をどう受け止めるべきかということについて考えていきましょう。

皮肉といえば京都の文化であるということで「現代人の皮肉」では京都の皮肉文化について触れていましたが、元々皮肉という言葉は、達磨大師が弟子に対して行なった最終試験の逸話が元となっています。

知っている人は知っているような話ですが、「僕が伝えたかったことは何か、それを示してみなさい」をいう最終試験で、4人の弟子がそれぞれ異なったアプローチで回答をし、「君は私の皮を理解している、合格!」「君は私の肉を理解している、合格!」「君は私の骨を理解している、合格!」「君は私の髄を理解している、合格!」と言った感じで全員合格となりました。

最初の三人はバラバラのことを言いながら合格し、最後に回答した弟子なんかは沈黙を続けているだけで「合格!」ということになったという感じです。

つまり、達磨大師が伝えたかったことは、いろいろなアプローチで説明可能だということです。ある一つの抽象概念に対して、言語で説明しようとすればいろいろな方向からいろいろな語り方ができるということにもなりますし、この場合は沈黙するということすらそれを示すことにすらなるという面白い逸話です。

そうしたことが実際にあったのかどうかは知りませんし、脚色なども混じっているのかも知れませんが、この逸話には様々な面白い面がたくさん含まれています。

それは、皮肉の語源となっているということで、ひとつの対象には様々な説明をすることができるというような面です。「皮肉」の現代の語義に関しても、「肯定しているようで否定している」という意味を持ちつつ、「あるフレーズが持つ意味は、ひとつではない」ということを意味しているという感じになっています。

そしてさらに、達磨大師の弟子が全員合格となったように、そうした様々な意味が全て正解であり、唯一何か具体的に限定して示しているのではないということにもなります。

一応、皮、肉、骨、髄は、順を追って表面から奥深くの部分までという分類をすることができます。ということで現代の「皮肉」という言葉の使われ方としては、表面的な「皮」を捉え、内側にある「肉」を理解しない愚か者よ、というような意味に捉えられています。

が、達磨大師の逸話の中では、「皮しか理解していないから不合格」「肉を理解しているから合格」という風にはなっていません。皮、肉、骨、髄のどれであっても合格だったということに着目しましょう。

「今日はすごくおしゃれですね」

と言われたときに、字義的に考えれば、発言者としてはこちらを示して「おしゃれだと思った」ということにもなりますし、誰がおしゃれかをはっきり示していないので、他の誰かのことを示して「おしゃれだ」という感想を持っているという可能性もあります。

そして京都の皮肉文化のような捉え方をすれば、皮肉の意味合いである「肯定しているようで否定している」という要素が現れたりします。そうなるとその言葉は侮蔑の表現ということにもなりえますし、「誰がか?」ということを示しているわけではないのでそれが宙に浮いている可能性もあります。

さらに、「今日は」という限定をしているということは、「昨日は悪かったが今日は良い」という意味が含まれている可能性もありますし、「昨日は良かったけど今日は良くない」という皮肉である可能性もあります。

たった一文でもそのように意味は多岐に渡ってしまいますが、それらはすべて可能性としては含まれていますし、何か具体的なひとつの意味であるわけではないのです。

そんな中、それまでの経験則や文脈、非言語的要素などから推測して「一つの意味」に「勝手に」限定し、感情が生まれ、喜んだり怒ったりしているわけです。

もちろん意図としては一つの意味を示すという場合もありますし、複合的になっている場合もあります。

ということで、この意識がその言葉の解釈を作り、それが発端となって感情が起こっているということになります。

「現象はいつも無属性だ」ということの本質はそこにあります。

だからこそ目の前の現象を明るく捉える人は、その奥に楽観的な解釈パターンがあり、悲観的な人は悲観的な意味の限定をするというパターンがあるということです。

言語ですらその有様ですが、目の前の現象も全て同じように解釈のパターンが「意味を限定」しています。

ということで、「ポジティブな言葉を使おう」とか「ポジティブシンキングをしよう」というようなことは、こうしたプロセスの中で良い感情を呼び起こすパターンを作り上げるということになっています。

しかし、本来は無属性です。

そうした感情が良いものであっても、その感情への執着が生まれたりその感情に反するものへの怒りが生じるのならば、それは良いやり方とは言えません。

人の意見を理解することと、人の意見に振り回されること

ということで人の意見を理解するのはいいですが、人の意見に賛同する必要はありません。影響を与えられ、振り回される必要はどこにもないのです。

例えば、募金活動か何かに参加したとしましょう。

そうすると、それは誰か困っている人を助けようという慈悲的な意図も含まれながら、面接などの対策のための点数稼ぎという可能性、婚活代わりに出会いを求めてという可能性、同じ暇つぶしでもお金のかからない暇つぶしを選んだという可能性、劣等感・罪悪感の補償行為など、様々な解釈可能性があり、様々な動機の要素があると考えられます。

そのうちのたったひとつが、その行為の動機というわけではないはずです。

それでも、その行為を見て動機を伺う人からすれば、その人の解釈パターンの上で「偽善だろう」とか「慈善事業を通じた出会いを求めているスケベ心だ」ということを判断してしまいます。

もちろん純粋な動機というのも可能性としてはありますし、その中で際立っている要素、決め手となった要素もあるでしょう。

しかしそれは「その行為を判断する他人」が勝手に解釈するようなひとつの要素というわけではありません。

むしろ本人も気づいていないだけで、「過去に誰かにお世話になったことへの返報性要素がある」といったことも動機の一要因となっているかもしれません。ということで、もっと複雑に動機が組み合わさっているはずです。

そういうわけで、人のご意見というものは、その人の意見を理解するということ自体はいいですが、影響されるようなものではないのです。

純粋な気持ちで何かを行なったとしても、解釈可能性の分だけ人によって勝手に解釈されることはありますし、その解釈の仕方はその人の解釈パターンに委ねられているので、自分の手が届かないような領域になります。そんなところまで全て対応している暇はありません。

そういうわけで、行為の意味、動機の要素はいろいろ可能性が対象となっていますし、そのどれもが正解であり、また不正解でもあります。

ということで、そんなことに囚われている場合ではありません。

物理的な属性であれば物理的な属性のままです。火にあたれば熱く、時に痛いですし火傷をします。

しかしそうしたものを超えて無属性なものに属性を与えるのは己の意識であり、皮肉に反応するというのも相手の責任ではなく己の意識の解釈に原因があるのです。

たとえ皮肉を言われたとして、それを褒め言葉として喜んでも、皮肉と解釈して怒りを生じさせることも無知ゆえに起こる感情に苛まれているということになります。

感情を作り出すのは他人ではありません。

全て己の意識なのです。

人の意見に感情が起こるということは、この心の外に操られていることになります。

感情を作り出さずにいると、その意見が単なる情報になります。

それが「自分が具体的には気づいていなかった解釈の仕方」なら思考の材料とすればいいですし、既に気づいていることなら、無視しても大丈夫なはずです。

そうなると全てがプラスにしかなりません。

人の意見に振り回されるということは、意見によって感情が起こっているということです。

しかしそんな感情も、数ある可能性の中のひとつの具体的な何かに意識が縛られているからこそ起こるという感じになります。

行為としての具体的な選択は一つですが、意味や答えは具体的なひとつではないのです。

それは皮肉骨髄の逸話の中にも表現されています。

Category:miscellaneous notes 雑記

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