病人と芸術

あらゆる種類の悲観や魂の悲惨に対しては、まず食事の変更と肉体的な荒仕事を実験すべきである。しかし人間はこの場合、麻酔剤に手を伸ばしがちである、―  たとえば芸術に。それは彼らにも芸術にも禍いとなる!諸君が病人として芸術を熱望するなら、諸君は芸術家を病気にしてしまうことに気がつかないのか? 曙光 269

うつ気味になった時は、食事の変更と、体を動かすということをまずした方がいいでしょう。高血圧気味でも、薬をのむ前にそういった事をまず行ってから検討したほうがいいのと同様に、何でも医者の言うことが正しいとは限りません。誤診率の高さからわかるように、ほとんどが自然治癒のプラシーボなのですから。同様に怪しい占い師に相談してはいけません。怪しくなくても占い師や宗教がかった人にハマってはいけません。

さて、今回は友人の画家についてでも触れていきましょう。百貨店の美術画廊などで個展が開かられるような自称ではない「画家」であり、副業で芸大で教鞭をとったりしています。

自称ではない「画家」

京都という街の特性からか、友人のお父さんが陶芸家だったり、意匠家・デザイナーということもよくあります。デザイナーは芸術家ではありませんが、職業にしている以上、それなりの腕はあります。

友人には何人か芸術家という職業の人がいます。

これは「個展」と言って友だちや知り合いに見に来てもらって満足している芸大生のような自称芸術家ではなく、本当に絵を売っているタイプの人です。

相田みつを氏のまね事のようなことをして四条大橋などで、露天商のようなことをやっているタイプではなく、画廊に常設され、百貨店などでも画展を開いたりしています。副業的に大学などで教鞭をとったりしているようです。

先日、何かの賞を取ったようですが、個展の案内などに特にそれを押し出していなかったようなので、そのことについて触れると、

「あれは順繰りで回ってくるもんで、みちのくプロレスのチャンピオンベルトのようなものさ。対外的に書くようなもんじゃない」

まあそんなところだろうとは思いました。

自称芸術家たちの日常との違い

京都では、たくさんの自称芸術家が、オーガニックカフェや変な飲み屋などに集まって、芸術を語っています。彼は、そんなことは一切しませんでした。ただ、ひたすらに描き続けただけです。個展に友人を招いて、その後に飲み会ということもありません。

半フリーターのような時でも、その時に感じた経験をしっかりと捉えながら、悲観的になること無く描き続けました。どうせやるなら「自分に言い訳せずにやれ」ということを、示してくれた一人でもあります。

どうも本質的ではないところばかりの「一応、その方向」的なことばかりやっている人がたくさんいます。それは救いようのないくらいアタマが悪いか、何かを芸術などのせいにして、誤魔化しているのでしょう。

「群れる友だちが大事」なら芸術は必要ありません。ただの友達を作ればいいだけです。デッサンばかりやるのもいいですが、本当に画家になりたいのならば、何かに応募するということも必要になってくるでしょう。

売れない芸人が観客実質ゼロ人のイベントをやったり、インターネットラジオなどを自作したりしていますが、そんなことより何かの新人賞を狙ったほうが確実です。職業としてその道に行きたければですが。

それをしないのは、彼らの中でのそういった活動が、「責任を負うような仕事を避けて、同じような人間と群れ続ける言い訳」にしか過ぎないからでしょう。

思い違いをしたがる

逃避としての変人意識と芸術

病人と芸術 曙光 269

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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