理不尽な疫病神

考え方、というよりも社会における視野が大きく違うと、話も合わなくなってきます。そんな中、「隣の高校だった人」などなど、知らぬ間に縁が切れていったような同い年の人たちを見渡してみると、やはり学校の風土的な違いがどこかしら影響しているような気がする時もあります。

最近では無くなりましたが、そうした人たちから集まりのお誘いを受けたりしました。しかし、その内容が「青春を引き摺っている系」のニオイがするので、企画内容に寒気を覚えてしまい、断っているうちに誘われもしなくなりました。

別にいけないわけでもないのですが、何だか寒気がしてしまうという感じです。そしてそこには本質的な貧乏神気質が潜んでいるような気がしてなりません。

その根本をたどると、やはり消費目線と事業目線という感じの差が大きいのかもしれません。

といっても収益的な問題だけではなく、「楽しみ」としてどうしたことに意識が向いているかという差なのでしょう。

例えば、学生時代にバイトで家庭教師をしていた時は「遊ぶ金欲しさ」がメインであり、あくまで楽しみは「バイト代を使ってみんなで海に行く」的な感じだったりしたとします。

ところが、本業で家庭教師となった場合、自分の教え子がものすごく学力が上がって、当初の想定よりも遥かに高いレベルの学校に受かったとしましょう。

そして、その教え子にものすごく感謝をされ尊敬もされた、という感じになれば、「海に遊びに行くこと」ではなく、今回と同じような「仕事での達成感」を得たくて仕方なくなったりするはずです。

そうなると「もっと教え子の学力を高めるためにはどうすればよいか?」という研究のようなものが趣味を超えた楽しみになります。

また、例えば同じような目的で、学生時代飲食店でバイトしていたとしましょう。

その後本業で飲食店を経営するようになり、自分たちが提供する「日常とは違った時間」がお客にとってはすごく大切な瞬間なのだということを悟ってしまった場合、それは「食い扶持稼ぎ」を超えた喜びに変わっていきます。

自分の店で誰かがプロポーズをしていたとしましょう。

もしそのような光景を一度でも観てしまえば、「客単価や回転率が云々」を通り越して、「お客さんに最高の空間を提供し、最高の時間を過ごしてもらいたい」と強烈に思ったりもするでしょう。

もうそうなると「遊びに行くためにお金を稼ぐ」という領域を超越してしまいます。

グラスを丁寧に磨くこと一つでも楽しみになってしまうのです。

そういうわけで、「青春を引き摺っている系」というものは、まだ高校生・大学生バイト、いいところ新入社員くらいの時の感覚の延長を意味します。

その感覚の人と遊びにばかり行っていると、より高いレベルの楽しみも味わえなくなりますし、お金も儲からないどころか減る一方です。

「遊ばないで何が楽しいの?」的な感じで厄介味を言われたりもするかもしれませんが「その遊びよりも楽しいからそっちを選んでいないだけ」というのが本音の答えです。別に単にお金が欲しいという理由だけでそうした遊びをしないわけではないのです。

「お金の無い人ほど使いたがる」という太古の昔から変わっていない法則の奥には、このような意識の差があるというのも一つなのでしょう。

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