熱意に対する比例と反比例

熱意というものは基本的に伝わります。同調によって相手を感化するというような感じです。しかし、一方で熱意に対して反比例するかのように冷めてしまうことがあります。

相手を状況を無視したような熱意は、時に相手を飲み込むように感化するものともなれば、一方で、強烈な抵抗が起こって冷められてしまうという場合もあります。

その理由はいくつかありますが、ひとつは相手の状況を無視したとしても熱意を伝えることのできる状況を作れていたかどうかというようなもの、そしてあまりに自己都合が強すぎたのではないか、というようなもの、さらに「弱さから生じたものであったこと」というようなものがあります。

社内洗脳パーティで感化される者と冷める者

勤め人時代のことですが、同期の社員がホテルの貸し会場のような所に集められ、パーティというか祭りというか、というようなイベントが開催されたことがありました。

狂信が望まれる場合」で少し触れていましたが、自己啓発系の胡散臭いコンサルにでも吹き込まれたのでしょう、表向きは決起集会兼慰労会のようなものですが、その実、洗脳パーティでした。

実際の名称とは若干異なりますが、そのイベント名は「ぶっちぎり祭」というようなものでした。

つまり、「成績もぶっちぎり、アポ数も訪問件数もぶっちぎり、というような社員になろう」というような洗脳祭りです。

その祭りの催しの側に駆り出された同期社員は、強い変性意識状態だったのか完全に目がイッており、「ぶっちぎり」の名のごとく、「うおーっ!」と走って会場を駆け巡るという感じでした。

それに同調してか一部の同期社員は、自己啓発的な「うおーっ!」という感じになっており、上層部に「僕はやりますよ!絶対にやりますよ!」と、某フードサービスの研修並の状態になっていました。

その洗脳され具合は、浦沢直樹氏の20世紀少年に出てくる「ともだちランド」のスタッフのようでした。

強烈なマインドコントロール手法は全員には用いられていないような感じでしたが、一部の人間に強烈なマインドコントロールを行い、その人達を軸に周りを感化させようというような意図が感じられました。

一方、そうした熱すぎる感じに抵抗するように、一部の人達は過剰なまでの「冷め」の状態となりました。会場の外の階段に座り溜息をつくような感じです。

もし熱意が全員に同調し、全員に機能するのであれば、全員が感化されていなければおかしいはずです。

しかし想像にたやすく、ある程度の人は冷め、ある程度の人は感化されていることを装ってその場をしのぐような感じでした。実際に感化されていた人など1割程度というような印象でした。

押すのが良いのか引くのが良いのか

世の中で生活していると「押すのが良いのか?それとも引くのが良いのか?」ということで迷ってしまうような局面がやってきたりします。

「人間の意識のあり方としてどちらか一方に一元化してくれればどんなに楽だろう」というようなことを思う人も多いのではないでしょうか?

押して通じ、引いて追いかけられ、ということもあれば、押すと冷められ、引くとそれっきり、というような感じですね。

対人関係にはなぜか適切な距離や頻度というようなものがあり、それをはみ出すと逆効果になっていくというようなことがよく起こったりします。

なので、家族だからと近づきすぎると喧嘩になることもありますし、愛しい相手だからと近づきすぎると鬱陶しいと思われてしまったりもするわけです。これは仕事においても同じようなものです。

相手にしてもらおうと追いかけると抵抗が起こる

基本的には「相手にしてもらおうと追いかけると抵抗が起こる」という感じになっています。

その奥にある理由は「その先に『快』がないから」というような感じになっています。

互いが接して快さがあるのなら、相手は追いかけてでもやってくるはずです。

しかし、自分の不快を解消すべく相手にそれを委ね近づいても、相手には「快」がないのだから、相手はそれを避けます。

でもそんな短絡的なメリット/デメリットだけで接するというのも気が引けます。しかし快さと不快さによるその意識の働きは一応仕方のないことです。

では、どうすればよいのかという点ですが、想像にたやすく一般的には相手を安易に喜ばせようとします。下手に出てみたり、物を贈ったりというようなものです(会社でもよく意味不明の褒賞のようなものがありました)。

しかし、その裏にあるものも見抜かれているので、安易な手法は通用しないか、うまく利用されるだけにとどまってしまいます。

これは相手を追いかけるという行動自体が「弱さから生じた憐れみ乞い」であり、「自己都合が強すぎて疎がられる」という感じになっています。

一人で立って共に未来を思い描く

ということで、問題点のうちの二つが見えてきたので、その逆をいけば答えに近づいていきます。

「弱さから生じた憐れみ乞い」であり、「自己都合が強すぎて疎がられる」ということが問題なのであれば、「強さから生じた慈しみ」と「自己都合だけではなく相手の都合も含める」という感じで裏返していけば良いという感じになります。

これで視点が高くなりました。

しかしそれくらいはすぐにわかりそうなものです。

その先に、強さにより一人で立った上で、相手と共に未来を思い描くという感じになれば、必然的に「その先に『快』が見える」という感じになります。

これが、「相手の状況を無視したとしても熱意を伝えることのできる状況を作れていたかどうか」という点に繋がります。

で、その上で、意識の矛先として、ひとつは思い描いた未来に向きながら、もう一方は「相手以外」に向けるという感じになっていけば、追う側ではなく追われる側になります。

追われる側といっても元々追う側でもあったので、めでたしめでたしとなります。

Category:miscellaneous notes 雑記

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