滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さ

滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さこそが青春たるものであるということのようで、狼狽えること無く突き進むことができるその衝動こそが成長の原動力であるという感じになるのでしょう。

まあそうした滑稽を自覚できない一途さや、自分を客観化できない視野の狭さ自体は別にいいのですが、その場限りならばそれほど大したことにならないようなことでも、インターネットでそれが起こると収集がつかなくなることがあります。

現実的に集まっている時、とりわけそこそこの人数でいる中であれば、軋轢が生まれた場合でも、何だかんだですぐにその場で解決し、その時の出来事はあまり後に残りません。

しかしながら、デジタルデータ化の上でより個人的に軋轢が生まれた場合は、その情報が反芻されることになる上に、言語的データのみで解決しなければならず、かつ、個人的な情報の操作のみで完結しなければならないというハードルの高さがやってきます。

これはすなわち、飛び込み訪問なり何なりを複数人で行う時であれば分散されるであろう緊張感が自分ひとりに集中し、かつ、言葉を選ぶということを筆頭に、言語的な情報の操作のみで解決しなければならないというような形になるということになります。

そしてさらにそれが変に公の場となる場合もあるので、他の人への影響を考えて言葉選びがかなり限定的になり、かつ、野放しにしていてもデータが残存し、時間が解決してくれるというわけでもないという追い打ちのような要素すらあります。

逆に「後々考えてみればあの時は感情に任せすぎた」と赤面してしまうようなこともデータとして残るという可能性があるので、さらにやっかいになります。

「忘れられる権利」という言葉が生まれて久しいですが、何かの争いに関して、「忘れたほうがいい」という点については、その構成員の全員に通ずるところがあります。

「自分を客観化できない視野の狭さ」からツッコむのはいいですが、滑稽を自覚できないという形で落語のようになるということは、一種の恥ずかしさを生み出します。

ある地点で精神状態がまともになったり、精神が成長して視野が広がって、滑稽を自覚できた瞬間に赤面しなければならないというのは、成長の過程で起こることなので、仕方がないようなことではありますが、それが残ってしまい、かつ、その状態を操作できないとか、操作するということも野暮ったいという事になればさらに変な緊張が走ります。

若い時の失敗自体は、ある種失敗であることを自覚できた時に成長できるものなので、いくらでもしていいと思いますが、なるべくその場限りで完結するに越したことはありません。

その場で流れたことは、しばらく忘れて数年後に思い返すと笑い話にでもなりますが、変に残ると笑えなくなってしまいます。

変なおじさんに絡まれたというとき、それが友達と一緒でリアルに体験しているときならば、逆にそのおじさんに絡んで遊ぶことも出来ますし、笑うようなことなのだと解釈することが出来ます。

病中で疑心暗鬼真っ盛りだった時を除き、僕は基本的に何かトラブルのようなことが起こった時、問題が発生したときには「面白くなってきたぞ」とワクワクしてしまいます。

そして小学生の時からですが「これで孫の代にまで語り継ぐことができるような話のネタができる」というフレーズがやってきます。

「何やら深刻そうなことになっているなぁ」と思った時は、そんなことを思い浮かべてみると少しは楽になるのではないでしょうか。

Category:笑う月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ